知と恋と糸 〜a^livre avec amour〜



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 言葉にしなきゃ、伝わらない。

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 波紋のように反響する靴音。それが止むと、今度は紙を捲る音。
 それは、音に厳しい図書館で出してもいい、正しい音だ。
 紅魔館の地下、どこまでも広い大図書館。そこに住まう魔女パチュリー・ノーレッジは、その音に耳を傾けながらいつも通り本を読んでいた。
 今読んでいるのは、ラテンの魔術書である。外の世界でラテン語が使われなくなってきた為、幻想郷にもラテン書物が流れ込み始めたのだ。人は、失われた古代の遺物に神秘性を感じる性質がある。神秘性を得たラテン語は、やがて魔力を帯び始める。言葉に魔力が宿れば、それは言霊となり、ルーンのようにそれ自体が魔法となる。いつだって、魔法は術者オリジナル。そういう訳で、魔女と呼ばれている身として、新しい魔法を発見しようという魂胆なのである。
 でも、今日は魔法の研究はお休み。
 今日は大事な来客がいるのだから。
 いや、正確にいうならば、今日『も』だけれども。
「アリス、今日は何か借りていくの?」
「え? ええ、今日は」
 問いかけに、本棚の隙間から顔を覗かせて答えたのは、金色の髪を揺らし、幾多の人形を操る、いたいけな少女。
 アリス・マーガトロイド。それが、彼女の名前だ。
 魔法の森に暮らし、修行の末に人間から魔法使いへとなった人形遣いで、今もなお人形の研究に尽力している。二度ほどアリスの家にお邪魔したことがあるが、あの人形の量には心底驚いた。それだけでも冷や汗ものなのに、部屋に入った瞬間に全部の人形が同時にこっちを向いたのにはもう心臓が止まりそうになった。その驚きもさることながら、アリスの人形操作技術の高さにも驚かされた。
 そして、ここのところ、アリスはほぼ毎日この図書館へと来ている。
 人形作りの参考文献探しか、それとも単に本を読みに来たのか……なんにせよ、ここにはまともに本を読みに来る奴がいないから、この大図書館の主としては嬉しい限りである。
 そして最近はよくお茶をする。同じ『魔法使い』という括りだからというわけではないが、アリスとは気が合うというか馬が合うというか、なんというか、波長が合うのだ。
 頭脳派で、平穏と静寂を好み、けれど宴会も好きで、ついでに変に職人気質。
 そんなアリスが好きになり、そして今ではお互いを理解しあえる、無二の友人だ。
 本の文字を目で追うのを止め、無意識のうちにアリスを目で追っていると、丁度アリスが本を抱えてやってきた。五、六冊ほど積み重ねていて、危なげにフラフラしている。……人形に持たせればいいのに。
「で、借りるの?」
「う、うん、これ全部お願い」
 机に静かに置かれた本のタイトルを確認して、アリスから預かった図書カードに記入していく。本を大事に置くのを気づき、とても嬉しくなる。
「えーっと……」
 ロボットSFの名作『我はロボット』、言わずと知れた『星の王子さま』、シェイクスピアの悲劇『オセロ』、同じくシェイクスピアの喜劇『ヴェニスの商人』、……人形劇でもするのかしら。そして、今なお廃れない名作『ユリシーズ』。多種多様な本たち。それぞれに、書いた人の思いが、見えない形で語られている。
 それにしても、
「いろいろ借りたわね……人形劇でもするのかしら?」
 思い切って訊いてみる。一度に借りるには少し多すぎやしないかしら?
「あ、ええっと、たまに里で人形劇するときもあるから、ちょっと参考にしようかなって思って。それに、たまには本を読まないとね」
 そう、感心感心。
「じゃあ、図書カードはこっちで預かっておくわ。何を借りたのか把握できるように」
「ええ。じゃあまた」
 本を抱えながらも手を振ってくれるアリスに手を振り返す。
 と、ドアの前でアリスは立ち止まった。
「パ、パチュリー、あのね……」
 心なしか、その声は震えている。何かを言いたそうに、どこか言葉を選んでいるかのように、口がぱくぱくしている。その俯いた表情は、今にも泣きそうで――
「……明日もまた来るわ」
 そうアリスは呟いて、プイと顔を背けてさっさと図書館から出て行ってしまった。バタンと響いたドアの音に、何事かと小悪魔が顔を出す。
「全く……」
 溜め息と一緒に、忍び笑いが漏れてしまう。
 毎日欠かさずここへ来てくれる、大事な大事な愛すべき友人。
「……ありがと」
 さて、魔法の研究の続きでもしますか。



 アリスはとぼとぼと帰路を歩く。その足取りが遅いのは、借りた本が重いからでも、薄く降り積もった雪のせいでもない。
「パチュリー、気づいてくれたかな……」
 隠れたメッセージは伝わっただろうか。もし気づいていなかったらどうしよう。もし気づいていたらどうしよう。パチュリーの一挙一動に怯えてしまう自分がいじらしい。

「……どうして、素直に一言、好きって言えないんだろ」

 何に悲しんでいるのか解らないのに、涙が止まらなかった。



「パチュリーさまー」
「んー?」
 ペンが紙を走る音が止み、そして聞こえてきたのは小悪魔の声。
「『星の王子さま』って、原題はなんでしたっけ?」
 突然の質問。『星の王子さま』は確か、さっきアリスが借りていったような。
「なによ藪から棒に……まあいいけど。えーっと確か,『Le Petit Prince』じゃなかったかしら。邦題では『星の王子さま』だけど、原題では『小さな王子』って意味なのよ。まあいろいろな星を渡り歩く物語を読んで翻訳者は意図的に『星』にしたんじゃないかしら……って小悪魔、あなたならそのぐらい訊かなくてもわかるんじゃないかしら? あーもー」
「いえいえ、ちょっとした確認です」
「確認?」
 そう、確認です、とだけ呟いて、小悪魔は図書カードを眺めていた。主を差し置いて一人でニヤついているのが妙に癪に障るが、気にしないでおく。
「それにしても、いつになく饒舌でしたね、今……なんか嬉しいことでもありました?」
 嬉しいことと訊かれて、真っ先に思い浮かぶ彼女の笑顔。それだけで、何故だか心が嬉しくなってしまう。
「たとえば、アリスさんが来てくれること、とか?」
 全くの図星で慌ててしまう。その狼狽振りを見て、全てお見通しですよと言わんばかりに小悪魔はニヤニヤしている。本当に心の奥を見透かされているようで、本能的に心臓を押さえたくなる。
 本当に、意地悪な悪魔だ。いつからこんなに生意気になってしまったのか。
「なんにせよ、動かない大図書館と呼ばれたあのパチュリー様がこの体たらくじゃ」
 ニヤニヤ顔から一転、呆れ顔で両掌を上げる小悪魔。
「……どういうことかしら」
「どうもこうも、相手の心にも自分の心にも気付けないんじゃあどうしようもありませんよ。現状に満足しているから、相手の踏み込んだ一歩にも気付けない」
 ピラピラと扇がれる図書カード。キリキリと煽がれる私の心。
 明らかな挑発を受けているのに、駁論できない。
 整理のつかない心を揺さぶられて、今渦巻いているこの感情が何なのか、誰に向けてなのか、区別できない。
「それは、私とアリスのことを言っているのかしら?」
 その確認は、小悪魔に向けてのものじゃない。
 自分に向けてのものだ。
「誰のことだと思ってたんですか? ――ほら、気付いてないじゃないですか。『自分』と『相手』の関係に、距離に、心に」
「……うるさい」
 正論。全くの正論だ。だから反論できない。
 薄々は気づいていた、アリスがたまに見せる物憂いな眼差し。
 ふと合う視線、友人という認識、嬉しく思いながらも、倫理の檻に閉じ込めて、心の中に閉じ込めて。
 そして、ここまで言われてやっと気づいた自分の想い。
「あとは何も言いませんよ。これは本人の問題なんですから」
 そうして渡された図書カード。それは、ただの借りられた本の題名の羅列。
 でも、今は違う。
 それは、彼女の想い。
「――――私は」
 相手の心と向き合えば、こんなこと、すぐにわかるのに。
 自分の心に気づけないから、相手の心にも気づけない。
 全く、彼女が勇気を出して踏み出してくれた一歩を全く見えていなかった自分が嫌になる。
「……ちょっと、行ってくるわ」
 この想いを伝えるのは、今しかない。後で後でと思っていたら、絶対に伝えることができなくなってしまう。
 自ら規律を破って盛大に扉を開け放つ。廊下から流れ込んでくる冬独特の空気が、頭と肺を冷やしてくれる。冷静になればなるほど体が震えてしまう。それに、乾燥した空気は喘息の天敵だ。きちんとこの気持ちを伝えることができるだろうか。
 いや、伝えなければいけない。

 言葉にしなきゃ、想いは伝わらないのだから。

「はい、いってらっしゃませ」
 扉を閉じる寸前、後ろからかすかに聞こえたその声は、恐ろしいほどに頼もしかった。



 過去の書物ですら、それに込められた意図を辿るのが難しいというのに、
 それよりも複雑な『ヒト』の心を、どうして文字で伝えることができようか。
 図書館に一人残された小悪魔は、机上に置かれた図書カードを眺める。敬愛する主の達筆な字で書かれているのは、借りられた五冊の本の名前。

 I.Robot
 Le Petit Prince
 Othello
 VEnice's Merchant
 Ulysses

 こんなにもご丁寧に並べて積まれていたというのに、
「全く……本当に鈍いんですから、パチュリー様は」



 いつからだろう。
 パチュリーに、こんな気持ちを抱き始めたのは。
 最初は大してそんなに良い感情は持っていなかった。そもそも魔法使い自体が馴れ合う種族ではないし、内気で喘息で引きこもりな彼女になど興味も無かった。
 それが今では、どうしようもないほどに、彼女の存在が自分の中で大きくなっている。
 それでも、その心の隅で苛む罪悪感。女の子同士はいけないという固定概念。脳裏にちらつく邪な感情。ただ一緒にありたいだけなのに、なんでこんなに苦しいの?
 声に答えてくれるはずの賢者は、この声に気付かぬまま――


「――アリス!」


「えっ――」
 突然の呼号。その声に驚いたアリスが振り向いた先に立っていたのは、雪を被って白く化粧をしたパチュリーだった。
「パチュリー……」
 深々と降る雪の中、息を切らしてまで全速力で飛んできた賢者は、その双眸でしっかりと見据える。その、笑顔とは程遠い、萎れた彼女の姿を。
「ちょっと立って」
 まだなお肩で息をするパチュリーに言われるままに、アリスは座っていた窓際の安楽椅子から立ち上がる。言いようの無い不安、何を言えばいいのか、どうすればいいのか、自然と体が力んでしまう。
「パ、パチュリー、あのね、私――」
 何かを言いかけたアリスを、
 パチュリーは、何も言わずに、
 ただ、ギュッと、抱き締めた。
「……アリスの馬鹿。言わなきゃ、わからないじゃない」
 その華奢な体を、しっかりと抱き締める。伝わってくる温もりが、とても愛おしい。パチュリーの腕の中で、アリスの力んだ体が少しずつほぐれていくのがわかった。
「……簡単に言えたら、こんなに悩んでない」
 対等に向き合って、初めて言える本音。
「それにしても、本の頭文字で告白なんて……気付かなかったわ」
「だって、相手は本の虫だから……それしか思い付かなかったの」
 訪れる心地良い沈黙。何も言わなくても心が通じているような感覚に身を委ねる。でも、まだだ。まだ通い合ってない。きちんと言わなければ。
「好きよ、アリス」
 呟くように、それでもはっきりと伝えられた想い。
 驚くほど簡単に、言えた。
 今まで思い悩んでいたのが、嘘みたいに。
「……ずるい」
 その言葉に帰ってきたのは、震える言葉。
「私だって……」
 こうなることを望んでいた。でも、思いを伝えたら今までの関係が崩れてしまいそうで言えなかった。アリスの瞳から止め処なく溢れる涙を、パチュリーは指で掬ってあげる。
「私だって――」
 好き。
 そう言い返そうとアリスは振り向き、しかし続きを言えなかった。


 淡い雪明りが、一つに重なる二人の姿を照らしていた。



††



 結局その後、雪の中を無理に飛んできた為に微熱を出したパチュリーを、図書館に送り返す形になってしまった。
「ホントにダメダメですね、パチュリー様」などと笑顔でどこか嬉しそうに毒を吐く小悪魔にも手伝ってもらい、なんとかベッドに運び込んだ。その際に「ありがと」の一言と共に唇にキスをされた。「フフ、二回目」などと譫言を呟く彼女に一撃を加えて強引に寝かしつけて、林檎を剥いてあげた。
 なんとか落ち着いたところで、お暇させてもらうことにした。後のことは小悪魔とあのメイド長がやってくれるそうだ。
 パチュリーに見送られて部屋を出る。玄関まで小悪魔が送ってくれるということで、雑談をしながら二人で歩く。まだほんのりと人肌の温かさが残る唇に指を当てていると、隣を歩いていた小悪魔が「それにしても」と訊いてきた。
「それにしても、アリスさん」
「何? 小悪魔」
 小悪魔の方を見遣ると、小悪魔は心なしか、途轍もないほどに笑顔だった。
「さすがに『星の王子様』で『L』は無理がありますよ」
 なんというか、体に電流が走った気分になった。
「い、いつから気付いてたの!?」
「いつからって……ずっと小声でイニシャル呟きながら本を探してたら、パチュリー様みたいに鈍感で動いてない限り誰でも気付きますよ」
 まさかこの娘にバレていたとは……恥ずかしい、恥ずかしすぎる。なるほど道理で楽しそうな表情なわけだ。
「……だって、他に『L』がつく本がなかなか見つからなかったんだもの」
「そのくらい、探せばいくらでもありますよ。『レ・ミゼラブル』とか」
 たぶん読書家なら「その手があったか!」とでも言いそうなんだろうけど、残念ながら私はその辺についてはとんと疎い。
「いやいや、私、近代文学ぐらいしか読まないからわからないし……」
「いやいやアリスさん、『レ・ミゼラブル』はどちらかというと近代ですよ。圧政下でも必死に生きる人々の生活を描き、そしてその中で暮らす一人の男の心の変化の機微を細密に描いた素晴らしい作品ですよ!」
 ……そーなのかー。
「もー。アリスさん、もっと本を読んだほうがいいですよ。“身体には鍛錬、心には読書”を、です」
 プクッと頬を膨らませる小悪魔。そうは言っても私は本は嗜む程度だし……と弁解しようとして口を開きかける。とそのとき、小悪魔が丁度良く、閃いたと言わんばかりに手を鳴らした。
「じゃあ、これからは毎日図書館に来ないといけませんね。本を読みに」
 これで図書館に通うための理由が一つ増えましたね♪ と飛びっきりの笑顔で小悪魔はステップする。
 なんというか、もう、この悪魔には叶わないなと、そう悟った。
 だって、小悪魔だというのに、とんでもない天使(キューピッド)なのだから。


「パチュリー様共々、お待ちしてますよ♪」


††














〜あとがき〜
 タイトルは、ヘッセの『知と愛』を弄ったもので、Uは最初『車輪の下』(UNTERM RAD)だったん(中略)結局タイトルにちょっとだけ残った。あとはアリスは人形遣いで糸だし、なんか韻がいいし。ちとこいといと。
 甘々かもしれないし、そうじゃないかもしれない。とにかく二人は不器用で、やっぱりラブレターの文字よりも言葉で告白のほうが想いは伝わるというお話。真夜中のラブレターなんかよりも、本に愛を込めて(a livre avec amour)なんかよりも。
 小悪魔がいいとこどり過ぎるけど、だがそれがいい。そんな感じの話。





モドル

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