蛍火は幻想のように儚く消え逝く 〜Bustum Lucciolae〜



 ††

 盛夏は光陰のように過ぎ去り、夏も酣、少しずつ空が高くなる。
 そうなれば夏は終わり、やがて秋が来る。
 蛍二十日に蝉三日。蛍の命は夏と同じ。
 だから、夏の終わりは、蛍の終焉を意味する。
 そして、蛍の妖怪、リグル・ナイトバグは、薄々と気づいていた。

 自分の死期が近い、と。

 リグルは蟲といっても、蟲の妖怪である。そんじょそこらの蟲達のように、季節ごとに生まれ死んでを繰り返すわけではない。妖怪は妖しく怪しく変化した者、ほとんどがまさしく妖怪じみた長命で、死という単語は長く遠い生の先の未来に掻き消される。
 それでも、いくら長命でも、どれほどの妖怪でも、死は存在する。
 動いているモノはいつか止まる。生きているモノはいつか死ぬ。それは当然の理で、その道理が通用しないのは生きても死んでもいないモノだけだ。
 そして、その時が自分に来ただけのこと。
 それでも、怖いものは怖い、亡くなることが、無くなることが、今までの全てが泡沫のように消えてしまうのが怖い。
 だからこそ、最後は、最後だけは、自分の好きな場所で眠りたいと、そう思った。
 そして、ここに辿り着いた。
 蛍のように、夏を精一杯輝く向日葵が咲き誇る花畑。黄色の花弁を限りなく広い青空へと広げ、地上の恒星のように向日葵は有限の光輝を放つ。
 そこに佇むのは、凛と咲き誇る、一輪の気高き花。
 フラワーマスター、彼女は全ての花であり、そして何の花でもない。何にも染まらず、何にも染められず、花開く傍らにただ寄り添い、花と共に在るヒト。
 私の憧れ、私の先生、そして、私の好――













ゆく蛍 雲の上まで 去ぬべくは 秋風吹くと 雁に告げこせ












 ††

 身体が重い。
 そうリグルが感じたのは、三週間前のことだった。
 その日は夜行性の彼女にしては珍しく、朝方に目を覚ました。『珍しく』とはいっても、ここ最近はほとんど昼型の生活を送っているのだが。そして、身体の動きがいつもより鈍いことに気づいた。四肢が重く、鈍いというよりも、だるいという表現のほうが合うような、仄めいた倦怠感。そのときは特に何とも思わず、ああ今日はちょっと調子が悪いな、早起きしすぎたかな? もしかしたら『あの日』かもしれないな程度にしか思っていなかった。
 起きてまず、いつもどおり『蟲の知らせサービス』の確認をする。予定に合わせて使いの蟲を送り出して、予定表にチェックマーク。忘れっぽい蟲頭でも、紙に書き込んでおけば忘れることは無い。幽香さん直伝の生活の知恵だ。
 あっちの女性のお客さんには瑠璃色が綺麗なルリアゲハで優雅な目覚めを。こっちの男のお客さんには注文どおり『素晴らしい目覚め』の蜘蛛と蜂を。この寺子屋の教師ってのは……頭突きで蟲が死んじゃあ敵わないから、私が直々起こしに行ってあげようかな。よくお世話になってるし。
 そうして蟲を送り出したら、パジャマからいつもの服に着替える。お気に入りのマントを格好良く羽織り、鏡は無いけれど少しポーズをとってみ

 フラッ、と、

 それは何の前触れも無く何の音沙汰も無く何の虫の知らせも無くなく訪れた。
 貧血のような感覚、力が抜ける錯覚、意識が遠く向こうへと霞む。
 なんとか意識を持ち直して壁に手をつく。辛うじて立っている状態、立っているのがままならない、しかし座りたくても体が言うことを聞かない。
 リグルは壁に体を預けて、背を滑らせて床に座り込んだ。
 深呼吸を、一つ、二つ、三つ、四つ。
「……………………よし、なんとか、大丈夫、だ」
 まだ意識が茫漠としている。足がまだおぼつかない。体が激しく脈を打っている。その拍動に合わせて、激しい頭痛の波が襲ってくる。
 それでも頭の一部、思考は正常に動いている。
 ならば、大丈夫だ。
 妖怪は身体的に脅威の再生能力を持っている。バラバラにされれば流石に死んでしまうけれど、どんな重症でも一晩で治ってしまうぐらいには治癒能力は高い。だから、身体的な頭痛など、それほど苦ではないのだ。それでも、頭痛が続けば精神的に辛い。
 足に力を入れて、壁を頼りに立ち上がる。
 深呼吸を、一つ、二つ、三つ。
「……そろそろ、幽香さんのところに、行かなきゃ」
 妙に冷静な頭でふと思い返すのは、あの気高く眩しい一輪の花。
 少し前から、リグルは幽香にいろいろと勉強を教えてもらっている。幽香に気に入られて手取り足取り、というのもあるが、憧れの人から教えてもらっているという喜悦感や、蟲の使役や花の効果などまだ知らぬ万象を学びたいという好奇心もある。
「勉強とは探求」とは幽香の談、「求めよ、さすれば与えられん」も幽香の談。リグルがあれを知りたいと求めると、幽香は懇切丁寧にわかり易く教えてくれる。
 だからこそ、幽香との約束を、時間を、無碍にはできない。
 彼女のお蔭で、楽しく知識を増やせるのだから。
(……そういえば、幽香さんから貰ったハーブが、あったような)
 ふと思い出し、リグルはまだなおおぼつかない足取りで棚へと歩み寄る。棚の横、紐で纏めて吊るされているハーブの束から一房もぎ取り、簡素な台所でポットに入れる。
 とある用事で香霖堂で譲ってもらった、黄緑を基調とした落ち着く色合いのティーセット。ハーブを入れたそのポットに、中の液体の温度が冷めない魔法の瓶――香霖堂の店主曰く、名前もそのまま『魔法瓶』らしい――のお湯を入れる。そして、まだ続く頭痛休めに何分か待ってから、カップに淹れる。
 なみなみと縁を揺れる、グリーンともイエローとも言い難い不思議な色合いのローズマリーのハーブティー。
 ハーブは香りを楽しむもの、特にローズマリーの鼻をすり抜けるような香りは脳を活性化させる効果がある。
 スウッ、っと大きく鼻で息を吸う。清涼感のある強い香り。頭痛でもやもやと靄がかかったような脳が一気に冴える。香りを楽しんだら、あとは飲んでティーを味わう。甘く落ち着いた味。ローズマリーには血流促進の効果がある。それが手足に効けば冷え性の解消、身体全体に効けば発汗作用、脳に効けば頭痛緩和と、箇所によって効能が変化する。
 ……まあ、これも幽香さんからの受け売りなんだけど。
 幾分か回るようになってきた頭でそう思いつつ、少しずつカップを傾ける。
「うん……美味しい」
 身体的にも精神的にも落ち着いたところで、改めて深呼吸を一つ、二つ。頭痛はすっかり止んだ。よし、これで、いつもどおり。
 今日は快晴。蛍はまだまだ飛び盛り。
 そしてリグルは、何事も無かったように思い切りドアを開け放ってマントを翻す。夏の太陽は今日も燦々と輝いている。蒸し暑い大気、生命の息吹溢れる大地、その息吹を吸い込むように大きく深呼吸を一つ、
 そしてリグルは、陽光煌く青空へと飛び上がった。

 ††

 暑中の炎天下の中でも、花は美しく咲き乱れている。特に夏には向日葵が。それはまるで、地上の恒星のように。
 その地上の恒星が燦々と咲き乱れる花畑の外れに、彼女の家はある。
 花の中に佇む夢幻(ゆめまぼろし)のような館。探すまでもなく、その絶景の花畑を見渡せるテラスに、彼女はいた。
 日傘の下、緑の髪を風に靡かせ、まるで一輪の花のようにその存在を咲き誇らせる。
 風見幽香。
 それが、彼女の名前。
「おはようリグル、今日は遅かったじゃない……どうしたの?」
 笑顔を覗かせる幽香さん。他の皆は口々にあの笑顔は怖いと言うけれど、それは違う。敵対心を見せるから、幽香さんもそれ相応の力を笑顔の裏に潜ませる。
 ――「先従隗始。事を成すには先ず自分から。……勉学も、親交もね」
 そう紫さんが言っていた。学を修めたければ自分から学べ、親しくなりたければ自分から接せよ。
「いえ、ちょっと寝坊してしまって」
 だから私は、自然に幽香さんに話しかける。気高く咲き誇っていても、彼女とて一人の妖怪であり、一人の女の子なのだから。
「自分から教えを請いておいて寝坊なんて……お仕置きが必要かしらね」
「ひえぇ」
「なんてね、嘘よ嘘。じゃあ始めましょうか」
 そういって幽香さんはスカートを翻して屋内へと歩いていく。その後ろを追うように、私も家の中へと入っていった。


 今日は理科。
「時節は大暑。桐始めて花を結び、腐草蛍と為る候。どうせだし、身近な事象の実験でもしましょうか」
 幽香さんはよく実験をしてみせてくれる。
 ――「百聞は一見に如かず。何遍も聞くよりも実際に見たほうが経験として記憶に残るでしょう?」
 その言葉通り、実験をやる度にその不思議な結果に瞠目し、興味を惹かれ、そして経験として記憶に根付いた。ちんぷんかんぷんな実験でも、身近な例に譬えて説明してくれるから自分の持つ知識と関連付けしやすい。
「それで、今日は化学発光よ」
「科学発行?」
「字が違うわ」
「可逆反応?」
「……リグル、貴女熱でもあるのかしら? ちょっとこっちに来なさいな」
「えっ、あっ……うう」
 言われる通りに幽香さんに近づくと、ピタッと額に手を当てられた。細く白い指先が冷やっこい。夏になっても手足が冷たい人がいるけど、幽香さんはその類の人なのかもしれない。
 丁度幽香さんの、その、たわわな胸が視界の真正面にあって、視線のやり場に困って目を逸らす。逸らした先には、白いシャツに包まれた華奢な腕。一体この腕の、この華奢な身体の何処に、あんな幻想郷でも屈指の力が隠されているのだろうか。
「うーん……大丈夫みたいね。でも無理は禁物よ、何かあったら言いなさい」
「あ、はい……」
 それにしても、今朝の頭痛がまだ響いているのだろうか? 耳から入ってきた単語が誤変換されるように、目から入ってきた情報が波打っているように、脳が冴えないというか、余波がまだ脳を揺さぶっているような、余波にまだ脳が揺さぶられているような感覚。既に離された幽香さんの手の冷たさが少し愛おしい。
「で、続きだけど……化学発光よ、化学発光。簡単に言えば、光るの」
「えらく簡単ですね……」
 まあ『光を発する』だから、あながち間違ってはいないけれど。
「じゃあ早速。試薬はルミノールと過酸化水素。この二つだけよ」
 コトリと実験台の上に置かれたのは、二つの小さなガラス瓶。はて、この小瓶、どこかで見たことあるような……特に最近、永遠亭で見た記憶があるような。
「あら、よく覚えてるわね。この試薬は竹林の医者に譲ってもらったのよ。流石あらゆる薬を作る程度の能力、試『薬』もきちんと調製してくれたわ」
 流石薬師の面目躍如、あとでまた永遠亭にお礼に行かなきゃ。永琳さんには度々お世話になってるし。
「えっと、過酸化水素は確か……シュワシュワして消毒作用があるんですよね?」
「正解。ではルミノールは?」
「えーっと……」
 口に手を当てて考え込む。はて、ルミノールなんて物質は滅多に聞かない。というか、初耳かもしれない。悔しいけれど、自分の知識内にないものはわからない。でもそれは仕方のないこと、知らないことを学ぶのが学習なのだから。
「まあ私もわからないのだけれど……ルミノールはこの実験と、その応用の為だけに使われるようなものかしらね。とりあえずやってみた方が早いわね」
 そう言って幽香さんは、三角フラスコの中に過酸化水素とルミノールを静かに注いだ。注ぐ時は縁を合わせて、ラベルは上方に、薬瓶の扱いにも気をつけて。
「でも、この二つを混ぜただけでは何も起こらないの」
「ふぇ、そうなんですか」
「そう、そしてここに――血液を入れるの」
 その時、幽香さんの目の色が、変わったような気がした。背筋が凍るような感覚。左手に持たれた銀のナイフが鈍く光る。いや、ギラリと鈍く光ったのは、ナイフだろうか、それとも、その鋭い眼光だろうか。そう本能で怖気づいていた間に、幽香さんはその銀のナイフで、スッ、と自分の指先を切った。切創から、赤く紅く朱い血が一筋流れる。
 その鮮血が、ポタリと一雫、溶液に中に落ち、

 そして、それは発光した。

「うわぁ……!」
 指先から流れ落ちた血液の雫は溶液を穿ち、波紋を広げ、そして液体が青白く光を放った。
 たった三種の液体が織り成す、摩訶不思議な蒼白の発光。思わず息を飲んでしまう。
 しかしそれも一瞬の発光で、息を飲んでいる間にそれは終わってしまった。
「残念ながら、この量だと発光時間は今みたいに短いの」
 ふぇ、それは残念というか、でも、その一瞬の輝きは神秘的で幻想的で、まるで夏の夜に瞬く蛍のような……。
「そう、リグル、実は蛍の発光原理も、これと同じような原理なのよ。言ったでしょう? 『どうせだし、身近な事象の実験でもしましょうか』って」
「そう、だったんだ……」 
 私は蛍の妖怪、幽香さんはそれを酌んでくれたのだ。これほど嬉しい知識はない。
「それで、この発光の原理だけど、血液中のヘモグロビンの中の、色素成分である『ヘム』が触媒……って、蛍光反応……のよ」
(――――!?)
 突然、頭の中にノイズが響いた。耳鳴りのような、頭痛の波が一気に増幅されて、鼓膜を揺らしているような感覚。
「正……はヘムの中の鉄……錯体と呼ば…………子の中心に金属原……」
 視界が揺れる。頭がガンガン音を立てている。幽香さんの解説が頭に入ってこない。フワリと、ユラリと、身体が揺れる。二本の足で直立するのが辛い。力が抜ける。意識が抜ける。
 あっ、ヤバい。

 そう頭に浮かんだ時には、もう身体は地面に向かって倒れ

「リグル、リグルッ! ――大丈夫!?」
 失いかけた意識が一瞬で舞い戻る。耳に響く声、安心する声、心落ち着く声。。まだピントが合わない眼を右に向けると、そこには心配そうに顔色を伺っている幽香さんの顔があった。
 どうやら、地面に倒れる瞬間に幽香さんに抱き止められていたらしい。
「あっ……幽香さん、大丈夫、です、よ?」
「ぶっ倒れるような奴は大丈夫って言わないわよ!」
「あう、幽香さん、あんまり、怒鳴らないで、頭に、響きます……」
 心配そうな顔の幽香さん。――ああ、幽香さん、何故そんな顔をしているのですか。幽香さんにはそんな顔は似合いません。いつも笑顔で、花と共に在るのが、貴女に相応しいのに。
 だから、虚勢を張った。
「ほら、もうちゃんと立てますし、実験の説明も最後まで聞かないといけないですし、後片付けもしなきゃいけないですし。幽香さん、言ってたじゃないですか、片付けるまでが実験だ、って」
 虚勢を、張ってしまった。
「大丈夫です、ただの立ち眩みですよ。だから、続き、お願いします」
 私から幽香さんに教えを請うているのに、その私が倒れてしまったら、それは幽香さんに失礼だ。なら、私がやるべきことは、心配を掛けず、迷惑を掛けず、教えられたことを余す事無く吸収すること。
「…………わかったわ、でも、再三再四しつこく言うようだけれど、絶対に無理は禁物よ。今度倒れたらお仕置きしてあげるんだから」
「……ありがとうございます」
「そのありがとうございますは何に対しての感謝なの? お仕置きしてほしいのかしら?」
 ぐりぐりと責められる。
「幽香さんのお仕置きなら、ちょっと、嬉しいかもです」
「……馬鹿な事言ってないで、ほら、手貸してあげるから、椅子に座りなさいな」
「はい……」
 幽香さんに手を引いてもらって立ち上がる。まだ襲い掛かってくる頭痛は、執念で捻じ伏せた。邪魔をするな、私は幽香さんに教えてもらうんだ――だから、邪魔をするな。
 手を引いてもらったときに繋いだ手は、冷たかった。
 それでも、手が冷たい人は、代わりに心が温かい、そういう話がある。
 優しい幽香さん、花開く傍らにただ寄り添い、花と共に在るヒト。
 だから、その優しさを無駄にはしたくなかったのに、
 その後の説明は全く頭に入ってこなかった。
 幽香さんはずっと私の心配をしてくれていたというのに。
「――じゃあ、今日はここまで」
「はい、ありがとう、ございました」
 そう、最後まで、幽香さんは私の心配をしてくれたんだ。
 なのに私は、虚勢を張って、それを無碍にしてしまって。

 ごめんなさい。

 その言葉は、声に出すことは、できなかった。





 結局幽香は、リグルを止める事ができなかった。
 リグルにも意地やプライドはある。それは見栄だったり、弱音を吐かないことだったり、そのために、時には自分を押し殺してしまうときもある。
 そしてリグルは、幽香に心配をかけないようにと、迷惑をかけないようにと、自分を押し殺した。自分自身を騙して虚勢を張ったのだ。
 そして、その思いを、幽香は受け取った。
 だから、言えなかった。
 一言、「今日は休みなさい」と。
 言えなかった。
 言いたかった。
 幽香は独り、風に揺らめく向日葵を眺める。いつもなら、実験を終えたリグルと一緒にティータイムの時間なのに。その愛すべき蛍の子は、意地を張って、虚勢を張って。
 太陽に温められて熱くなった風が吹き抜ける。風が吹き抜ける音、風が向日葵を揺らす音、ざあっ、という音だけが、太陽の花畑に響く。
 その風に吹かれて、向日葵の花弁が一片、音も無く、散った。

 ††

 夕刻、逢魔が時。
 大地に纏わり付くような熱気も夜の迎えと共に徐々に薄れ、温い風が汗ばんだ肌を撫ぜていく。
 その温い風に乗って香るは、八目鰻の焼ける香ばしい匂い。
「でね、藍様ったら……」「橙は本当にあの狐の人にべったりだなー」「そういうチルノだってレティに……」
 食事時の歓談団欒、明るい雰囲気に、自然と会話が弾む。
「ふぇ!? そそそそんなことはないぜ?」「ふぇ、ってふぁんふぁほふぇふぃふぉふほひはいふぁ……」「ルーミア、食べてから言いなよ……」
 森の小道の奥の奥、今日も夜雀の屋台は賑わっていた。

 幽香との勉強を終え、いつものティータイムを断って家に戻ったリグルは、気分を紛らわせるためにいつもの面子と屋台で夕食を摂っていた。
 今日の夕食は八目鰻の蒲焼きに山菜の天麩羅、冷奴の葱と鰹節乗せに、そして冷酒である。
 夕飯というよりも、むしろ完全に居酒屋のメニューである。ただ、宴会好きで呑んべいな妖怪が多い幻想郷の屋台、しかも店主も妖怪である。そんな屋台に集ったら、出てくるメニューなど酒とその肴と相場が決まっている。
 いつもの面子は、いつものように和気藹々としている。
 橙はいつもの親語り、ルーミアはいつもの食べ盛り、ミスティアはいつもの歌語り、チルノは意外にボケもツッコミもできる必須要員、大妖精はチルノだけでなく皆のお姉さん的存在で、三妖精は兄弟風。
 いつもの面子に、いつもの会話。
 しかし、リグルだけは、いつもとは違っていた。
「リグル……なんか顔色悪いよ? 大丈夫?」
「……ふぇ? あ、ああ、ダイジョブダイジョブ、心配御無用だよ」
「とか言ってる割には全然食べてないし、黙ったまんまだし……」
 少し俯いているリグルを囲むように、八人が一つのテーブルに集う。
「チルノのギャグが寒かったんじゃない?」「えー、まああたいはいつも寒いけどさ。体温的な意味で」「大妖精さん、今こそツッコミを入れるべきタイミングだよ」「えっとえっと……なんでやねん!」「うわあ古典的!」「テンケテキテキ?」「チルノ、そーゆーの寒いじゃなくて、残念って言うんだよ」「よっ! 流石我が兄弟!」「サニー、合いの手おかしい」
 女三人寄れば姦しく、その三倍、九人寄れば宴になる。言葉は弾み、会話が飛び交い、それでもリグルの様子がおかしい。はてどうしたもんかと八人は悩み、

 そして、リグルが、椅子から滑り落ちるように、地面へと倒れこんだ。

「――リグルッ!?」「大丈夫!?」「だ、ダメ、全然意識がない!」「どどどどうしよう、リグルが――」「い、医者は!?」「――そうだ! えーりんがいる!」「永遠亭のあの医者なら……」「リグルは確か里のあのボインと面識があるから、アイツ経由で案内してもらおう!」

 最愛の友人たちの声が届く間もなく、リグルの意識は深淵の奥へと落ちていった。



 ††



 兎達の静止の声も因幡の白兎の停止の声も狂気の月の兎の制止も振り切って幽香が永遠亭に駆け込んだそこには、リグルがまるで永遠の眠りに就いているかのように眠っていた。
「リグ……ル?」
 返事は、無い。
「ちょっとリグル、いつも返事は重要だって教えてるでしょう?」
 返事は、無い。
「何で返事しないのよ、死んだわけでもあるまいに」
 返事は、無い。
「リグル、いい加減にし「落ち着きなさい、風見幽香」
 肩を揺さぶられて幽香は我に返る。振り向いた先にいたのは、八意永琳、蓬莱人、そして医者。
「貴女ほどの力を持つ妖怪ならば分かるでしょう? 彼女の命の火は、まだ消えてはいない」
 その言葉に、突然操られていた糸が切れたように、幽香は床へとへたり込む。譫言のように「良かった……」と呟く幽香を、リグルを搬送してきた八人は介抱する。
「それで……」
 と、周りでリグルと幽香を見守っていた友人たちの中心、全員の心中を代弁するようにチルノが口火を切った。
「えーりん、結果としてリグルは大丈夫なの?」
 倒れてから既に半日が経っていて、それでもまだ目を覚まさないのである。嫌でも全員の頭の中に、想像したくもない最悪の展開が浮かんでしまう。
「大丈夫、大丈夫よ…………『今回は』」
「『今回は』?」「どういうこと?」
 意味深な強調、不安を駆り立てる傍点、全員が不安に響く中、幽香だけは「まさか」という顔をしていた。否、それしか、できなかった。
「そう、今回は早急に対処できたからどうにか生き長らえた。だけど、もう薬(ドーピング)は効かないわ」
 今回は、生き長らえた。
 それはまるで、奇跡的に死を遠ざける事ができた様な言い振りだった。

「この子は、リグル・ナイトバグは――寿命よ。余命は三週間。もうじき死ぬわ」









 永い夢を、見ていたような気がする。
 意識が戻り、瞼を開いて、そんなことを思った。
 夢の内容は覚えていない。ただ、名前を何度も呼ばれた気がした。
 視界に映ったのは、見覚えのない天井。そこで初めて、自分が仰向けに寝ていることに気付いた。身体を起こそうにも、満身創痍のように全身が重く鈍く、起き上がることができない。
 仕方なく辺りを目線だけで見渡すと、そこは見覚えのある部屋だった。確か、永遠亭の診療部屋だったような気がする。部屋は覚えていても天井まで覚えているわけではないから少しあやふやだけど……。いや、かなりあやふやかもしれない。主に、私の意識が。まだ無重力を彷徨っているような、ふわふわとした浮遊感。まだ夢の中にいるのかもしれない。そう思って、重い腕を動かして頬を抓ってみた。いひゃい。やっぱり夢じゃなかった。
 と、改めて部屋を見渡す。小物や薬瓶がいつもより散らかっている気がする。いつもなら、鈴仙さんが毎日掃除と整頓をして清潔に保たれているはずなのだけれど。そしてその視線の先、
「――あっ、リグル、起きた?」
 薬師の可愛い弟子兎――鈴仙・優曇華院・イナバが、箒とチリトリを片手に片付けをしていた。
「……ん、鈴仙さん、おはよ「師匠ーッ! リグルさんが意識を取り戻しましたーッ!!」
 リグルが起きたのを見るや否や、鈴仙は嬉々とした声を上げて部屋を飛び出していった。あっけにとられるリグルを余所に、奥の部屋から会話が聞こえてくる。ついでにちょっとした叱り声も。
 やがて声は収まり、奥の部屋から、彼女は出てきた。
「あっ……永琳さん、こんにち……おはようございます」
「ええリグル、こんばんは。今は草木も眠る丑三つ時も過ぎた頃なのだけれど……気分はどう?」
 見覚えのある特徴的な赤と青の二色の医服、長く編まれた三つ編みの銀髪、どこか憂い気な眦、貫禄と優然を持ち合わせたオーラが滲み出ている。
 八意永琳、永遠亭に住まう姫の従者、蓬莱人、そして医者。
 リグルも、何度も幽香の意向で、永遠亭で化学の実習をしたり、時には永琳の診療を手伝ったりもしている。その為、永琳とは見知った仲である。『仲』と呼ぶには、幾分歳が掛け離れてはいるが。
 ちなみに永琳曰く、「リグルはうどんげとどっこいどっこい。素質はいいけどまだまだね」とのこと。
「はい、まだなんだか意識がフワフワするんですけど、なんとか大丈夫です。というか、永琳さんの方が顔色悪いですよ? どうしたんですか?」
「フフ……まさか貴女に心配されるなんてね。彼女が聞いたら何て言うかしら?」
 額に手を当てて、永琳は恨めしそうな表情にどこか若干の楽しそうな表情を含ませて小さく笑った。やれやれと、呆れたように首も振る。
「?」
「いえ、こっちの話よ……それで、リグル、貴女にお知らせが二つあるの。一つは良いお知らせ、もう一つは悪いお知らせ。どっちからがいいかしら?」
「そうですね……じゃあ、良い方からで。こういうのは良い方からと相場が決まってますし」
「そう……ならウドンゲ、アレを持ってきて頂戴」
「はい、師匠」
 そういって鈴仙はまた隣の部屋に戻っていく。向こうからガサゴソと何かを漁る音がする。
「お仲間さんがお土産を持ってきてくれたわ」
 そして鈴仙が持ってきたのは、色鮮やかなバスケット。林檎に蜜柑、甘蕉に葡萄、梨に苺に西瓜に甜瓜、果物ばかりの詰め合わせに、そして折鶴が、九羽。
 ……九羽?
 リグルは首を傾げる。
「それで……悪い方のお知らせね」
 溜め息を吐く永琳の目は、まだ泳いでいる。それは、患者に不安を与えてしまうような、医者がしてはいけない、言葉を選んでいるような表情。
 そして、永琳の目が、リグルの目を、見た。

「貴女の余命は三週間。それ以上は、たぶん、生きられないわ」

「……えっ?」
 リグルはそのままの姿勢で固まった。無情な宣告は、頭の中で反響する。
「死因は、寿命。リグル・ナイトバグ、貴女はもうじき、死ぬわ」
 死。
 寿命。
 生命の、停止。
「ちょ……師匠! そんなハッキリと言わなくても……!!」
 鈴仙は声を荒げる。患者に不安要素を与えないのがせめてもの気遣いだというのに。せめてもう少し遠回しに告げるべきだと、鈴仙は声を荒「……やっぱり、そうだったんですね」
「えっ?」
 ポツリと、そう呟いたリグルに、二人は同時に振り向いた。
「なんとなく、虫の知らせか、野生の勘かは知りませんけど、薄々気付いてはいたんです。そろそろ死ぬんだろうな、って。ただ、それを認めたくなくて……」
 リグルの握られた手は、何かに怯えるように震えている。俯いた顔は緑の髪に隠れていて表情が読み取れない。
「別に死ぬのは恐くないですよ? 恐くないです、恐くなんてないのに……なんで、こんなに体が震えるの……?」
 ぽたりと、リグルの握った手の甲に、涙が一雫落ちた。
「リグル……」
 震えるリグルに、鈴仙は言葉を掛けることが出来ない。
 目前に迫っている死を恐れない者などいない。それは鈴仙も、過去に月の戦士として死と隣り合わせの戦場で経験していることだった。
 飛び交う弾丸、倒れ逝く仲間、敵、味方、殺し、殺され――
 鈴仙の脳裏に蘇る、トラウマ。
「――ウドンゲ、貴女が死を恐れてどうするの。貴女はもう、地上の兎でしょう?」
「あ……そう、ですね、うん、そうでした、ありがとうございます、師匠」
 それに、今は貴女の話じゃないわ。
 そう、永琳は付け足して、リグルへと向き合った。
「さて、リグル。このように、死は誰もが恐れる事象なの。しかしそれは誰もに平等に訪れる、終わりから逃れることは出来ない」
 リグルは、永琳の目を見た。
 永琳は、リグルの目を見た。
 その目は、もう何からも逃げない、全てを受け入れた確固たる意志を秘めた瞳。
「ならば、貴女がすることは一つよ――日々を楽しく生きること。……いい?」
「はい」

 その消え入りそうな声は、それでもまだ、生の息吹に満ちていた。


 ††


 余命三週間。
 皮肉にも、蛍二十日と、余り一日。 
 そう告げられてから、いろいろやった。
 いつも通り、朝起きてから蟲の知らせサービスのチェックをした。普段通りに勉強もした。夜はいつもの面子と呑んだり食ったりした。博霊神社に行ったらあの夜のお返しと言わんばかりに視界上外から蹴りをかまされてその後励まされた。魔法の森に行ったら三週間で不老長寿の薬でも作ってやるよと言われたけれど断った。村に行ったら今まで学んだ知識を試してみろと言われて寺子屋の臨時教師をやらされた。湖で遊んでいたら吸血鬼に招待されて運命を捻じ曲げてやろうかと問われたけど断った。帰りの門で門番さんに何も言わずに笑顔で見送られて、メイドさんには祁門紅茶をもらった。人形師の家では静かに美味しい紅茶を出された。天空で出会った騒霊姉妹は、たった一人の観客の為に一曲弾いてくれた。あとでその曲が鎮魂歌だと知って皮肉にも笑ってしまった。冥界の姫に死について問われたけれど、死は終わりではないと胸を張って答えた。突然スキマに誘い込まれて、蓬莱の酒よと冗談交じりに呑まされた。永遠亭に行く時に不死鳥に蓬莱の薬を盗んでこようかと問われたけど断った。永遠亭に行った際に月の姫に蓬莱の薬をあげると言われたけど断った。月の頭脳は何も言わなかった。帰りに誰かに肩を叩かれ、振り向いたけれどそこには誰も居なくて、気付いたら手の中に四十葉のクローバーが入っていた。秋の神々には栄を示す葡萄と枯を示す紅葉を渡された。よく考えたら何故こんなに色んな人に励まされるのかと考え直していたら、いつもの白狼天狗と鴉天狗が飛んできて新聞を渡してくれた。号外は貴女の身内にしか渡しておりませんと言われて少しだけ安心した。乾と坤の神々に不遇だと慰み抱かれたけど不遇ではないと胸を張って答えた。奇跡の風祝に私の奇跡で寿命を延ばしますと言われたけど断った。彼岸に行こうかと思ったけれど、もう少ししたら結局お世話になるんだからと引き返した。博霊神社で逢った地底の覚りには、幸せならばそれでいいのですと諭された。同じく遊びに来ていた猫には屍体はあたいがもらっていくよと言われたけれど大事な人たちに見送ってもらいたいからとお断りした。路傍で出遭った小石のような何かに無意識に死ぬのって恐いよねと語りかけられたけれど、自分の意思を持って、自分の意識を持って恐くないと言い返した。最近里の近郊に降り立った船という名の寺の主には貴女達のような妖怪を救うことが私の役目だというのにと嘆かれたけど、それでも妖怪の為に尽くしてくれていることに感謝した。何度も眩暈と吐き気に襲われたけど、あの竹林の薬師に寿命をはっきりと見てもらったのだから心配ないと無理をした。死ぬ前に後悔しないように、今できることを、限りある時間を大切に過ごした。

 でも、
 何度太陽の畑に行っても、
 幽香さんには、逢えなかった。









 あれから何日経ったのか覚えていない。
 いつ死んでもいいようにと、日々を一生懸命生きてきたから。
 それでも、朝起きて、リグルは気付いた。
 身体が軽い。頭の重みがなくなった。
 そうか、
 今日、
 私は、
 死ぬんだなと、
 本能で、
 気付いた。
 だから今日は、あそこへ行こう。
 死に場所は、とっくの昔に決めていた。


 ††


 太陽の花畑の向日葵は、夏の終わりと共に散り始めていた。
 それでも、夏はまだ終わっていない。物事は今際の際が最も美しいもので、花は咲くのも散るのも美しい。
 それに、花が散っても、そこには種が残る。花が散ってしまうのは悲しいけれど、そこにはきちんと生きた証が残る。その生きた証はまた芽を伸ばして、やがてまた綺麗な花を咲かす。輪廻転生、それは仏教の考え方で、私は無宗教だけど、魂は死なないから死は終わりではない――私は、そう考えている。
 それは、花を操る妖怪が一番知っているはずなのに。
 彼女は何故、そんなに死を恐れているのだろう。
 その答えを聞きたくて。
 もう一度、彼女に逢いたくて。
「幽香さん!」
 私は叫ぶ。
「幽香さん!!」
 私は叫ぶ。
「幽香さん!!!」
 私は叫ぶ。
「私、ずっと夢だと思ってたんですよ! でも、それは夢じゃなかった! 幽香さん、私が眠ってた時に、三回呼んでくれたんですよね! だから私も、三回呼びましたよ!」
 あの夢現の中で、彼岸と此岸の境界で、誰かに呼ばれて帰って来れた。その声は、いつも笑顔が似合う温かい彼女の声。
 叫んだ拍子に咳が出る。怖ろしいほどに体が軽かった朝とは打って変わって、今はもうそのままここに蹲ってしまいたいほどに体が押し潰されそうなほどにこのまま倒れこんでしまいそうなほどにこのまま死んでしまいそうなほどに体が重かった。
 声は、届いただろうか。
 喉が潰れてしまいそうだ。頭が霞んでしまいそうだ。このまま蹲ってしまいそうだ。
 それでも、もう一度、もう一度だけ、
 息を吸って、喉を絞って、叫ぼうとして、

「…………遅いわよ」

 そして、声が。
 温かい声が、帰ってきた。
 振り返った先に立っていたのは、凛と咲き誇る、一輪の気高き花。
 フラワーマスター、彼女は全ての花であり、そして何の花でもない。何にも染まらず、何にも染められず、花開く傍らにただ寄り添い、花と共に在るヒト。
 私の憧れ、私の先生、そして、


 ――私の、好きな人。


 そう、好きだから。
 悔いが無いように。
 悔いの無いように。
 傘の陰で顔が見えない彼女へと、私はしっかりと声を張る。
「幽香さん、私、たぶん、今日、死にます。体が、そう、告げてるんです」
「………………」
「だから、今日、ここに来ました。最後に幽香さんに逢えて、私、すごく嬉しいです」
「…………」
「最後だから、きちんと言います。今までありがとうございました」
「……」
「そして、――好きでした」
「何を、言っているの」
 風が、花畑を、頬を、傘を、薙いだ。
「何、今から死にますみたいなこと、言ってるのよ」
「幽香さん……」
「リグル、あの医者は藪医者よ、言ってることは全部嘘よ、貴女は死んだりしないわ、ええそうよリグル、貴女は妖怪、妖怪は長命、一寸の虫にも五分の魂という諺を聞いたことが無いのかしら? 貴女は数十寸あるんだから、魂だって何寸もあるでしょう? 貴女がそんな急に死んでしまうなんてこと、あるわけな「幽香さん」
 捲くし立てるように放たれた幽香さんの言葉を遮る。ゆらりと揺れた傘の陰から、斜陽に当てられた幽香さんの顔が覗く。
 ――ああ、幽香さん。
 何故、そんな表情(かお)をするのですか。
 貴女には、太陽へと大きく伸びる花のような笑顔が似合うというのに、
 何故、そんなに泣きそうなのですか?
「幽香さん、何故そんなに、怯えているのですか――?」
 最後だから、
 最期だから、
 もう、残された時間は少ないから、
 だから、訊いた。
「私は、今まで生きてこれたことを、嬉しく思ってますよ。誇りに思ってます。確かに死ぬのは恐いですよ? 死んだ後、どうなるのかもわかりません。それでも、今まで皆と馬鹿騒ぎして、幽香さんにいろいろ教えてもらって、幻想郷でこうして生かされたことを、私は後悔などしようがありません」
 それが、私の思い。
 それが、私の想い。
 幽香さんの、その華奢な手を握る。
「私は」
 その手は、震えていた。
「私は――」
 その声は、震えていた。

「私は、リグル、貴女がいなくなるのが、恐い――――!」

 その顔は、泣いていた。
「貴女が本当に死んでしまうのが恐い、今まで貴女と重ねてきた時間が、全て泡沫のように消えてしまうのが恐い、この思いが、この想いが、届かなくなってしまうのが恐い――私だって、リグルが、好きなのに、ずっと、好きだったのに、好き、なのに――」
 涙と共に吐露される想い。
「大丈夫ですよ、幽香さん」
 その手を、その想いを、私はしっかりと握り締めた。
 もう絶対に、離れないように、逸(はぐ)れないように。
 冷たい手、それでも、温かい心が伝わってくる。
「幽香さんが私を思い続けてくれる限り、私は死なないですから――貴女の記憶の中で、生き続けます。だから、泣かないで下さい」
 拠り所を作らず、ただ花に寄り添い、そして誰にも寄り添わなかった気高き花は、
 何よりも大事なモノが失われてしまうのを、恐れていた。
 それでも、
 想いは残る。記憶は残る。
 いつまでも、種のように。
 そしてまた、花を咲かす。
 輪廻の転生。自然の摂理。
 彼女は冥府へと死に逝き、
 彼女は現世へと残されて、
 それでもまだ生き続ける。
 いつかまた、時を越えて、
 何処かでまた、出逢える。

 そう、信じて。

 暮れなずむ黄昏時、
 昼と夜の境界線、
 風が吹き荒び、
 花が揺れる。
 その中を、
 二人は、
 ただ、
 静かに、
 お互いを、
 互いの生を、
 互いの存在を、
 生きている事を、
 確かめ合うように――
 
 翳る晩夏の太陽に照らされた影は、ただ一つに、重なり合っていた。



 ††



 盛夏は光陰のように過ぎ去り、夏も酣、見上げた空は前に見上げた時よりも高く高く、いくら手を伸ばしても届かないほどに限りなく高かった。
 夏は終わり、そして季節は巡って秋となる。
「最後の夏、か……」
 ぽつりと呟いた言葉は、夏の夕暮れ空に消えていく。
 リグルは幽香の膝に頭を乗せて、膝枕の状態で空を眺めていた。
 幽香は何も言わず、ただリグルの緑の柔らかな髪を撫でる。
 さらさらと、指は髪を梳いて、
 さやさやと、風は花を撫ぜる。
 赤く紅く緋い夕暮れ空は空の彼方まで染まっていて、この空がどこまでも続いているような錯覚を憶えさせる。陽は長く影も長い誰彼時(たそがれどき)。熱気を帯びつつも柔らかい赤の光が、花畑の二人を染め上げる。
「今だから言いますけど……私、幽香さんと初めて会った時、内心恐くてドキドキしてました」
「……失礼ね、これでも私だって繊細なんだから」
「それは、逢ってるうちにだんだんわかりましたよ。強くて、恐くて、でも心は繊細で、花の心が、そしてヒトの心がわかるヒト。それが、風見幽香さん」
「褒められるのは、慣れてないわ……でも、ありがとう」
「えへへ」
「なら私からも言わせてもらうわ。ありがとう、私の可愛いリグル」
「いえ、そんな感謝されるようなことをした覚えは無いですよ」
「貴女と出逢わなければ、私の日々は今まで通り、ただ花に寄り添って生きていくだけの日々だった。そこに現れた貴女は、本当に私の太陽のようだった」
「幽香さん……」
「だから、ありがとう。私の日々は、貴女のお蔭で変わったの」
「なら私だって、幽香さんにいろいろ教えてもらった日々は何物にも代えられない、楽しい日々でしたよ」
「いえ私だって……」
「いやいや私だって」
「……」
「……」
「………………フフ」
「……ップ、アハハ」
「全く、最後ぐらいは歳上の面子を持たせなさいな」
「そう言いますけど、私だってこれでも数百年は生きてるんですよ?」
「そう……私は数千年だけど?」
「すいませんでした」
「わかればよろしい」
「――幽香さん」
「何?」
「呼んで、みただけです」
「……そう」
「そんなにがっかりしないでください。それにですよ? 死んだってすぐに直(じか)に逢えます。だって、ここは幻想郷ですよ?」
「……どういうことかしら?」
「この幻想郷には彼岸もある、地獄もある、天界もある、冥界もある。だから、死んでもすぐにどこかで逢えます」
「でも、死んでるんでしょう? ――私は、生きているリグルが、いい」
「また幽香さんったら、我儘ばっかり」
「好きな人に好きなことを望んで、何が悪いのかしら? ……なんか自分で言ってて恥ずかしくなってきたわ」
「そうやって永琳さんにも我儘を言ったんでしょう? 聞きましたよ」
「……あの医者、本格的にぶちのめした方が良さそうね」
「『本格的に』ってことは、発作的に何かやらかしたんですね? 永琳さんに掴みかかった挙句、部屋まで荒らした、とか」
「うっ……」
「でも、その話を聞いて、私、とても嬉しかったです。私が死ぬということに、幽香さんはその不条理に悲しんで怒ってくれた。それだけ想ってくれてたんだなって」
「そりゃあ、可愛い可愛い大事な教え子ですもの……それは永琳が、アイツが一番わかってるわよ」
「本当に永琳さんにも鈴仙さんにも迷惑掛けてばかりで……ああ、いくら謝っても、謝り足りないな」
「いいのよ。兎の方はともかく、永琳ぐらいに永く生きているとね、並大抵の迷惑なんて迷惑にならないのよ……むしろ、迷惑が人生のスパイスになるみたいに、ね」
「長く……」
「そう、永く」
「――幽香さん、いつだったか閻魔様に言われてましたよね。『貴女は長く生きすぎた』って」
「……そうね。そんなことを言われた日もあったわね……でも、今だから思えるわ、私は、長く生きすぎてしまったかもしれないと」
「でも、生きるのに理由なんて、無いですよね?」
「そう、生きるのに理由なんて、無い。そうして私は花と共に生きてきて……そして今、ようやく手に入れた『生きる理由』を失おうとしている。こんなことなら、長く生きなければよかった。そう思ってしまうぐらいに……」
「でももし幽香さんが先に死んじゃったら、私が悲しんでいたと思います」
「……そうね。でも、それは仕方の無いこと、私も貴女も妖怪とはいえ、一つの生物。いつかは死ぬモノなのだから」
「そして必ずどちらかが取り残される……」
「それでも、残されても、記憶は残る、思い出は残る。死によって全てが消えてしまうわけではない。私の心には、貴女がいるのだから」
「幽香さん……」
「それを教えてくれたのは、リグル、貴女でしょう? ――だから、ご褒美」
「え、あ、――――――ん」
「――――ほら、まだ、唇、温かい」
「あ、あぅあぅ、ゆ、幽香さん……」
「何かしら?」
「や、呼んで、みただけです」
「そう」
「……やっぱり、幽香さんには笑顔が似合います」
「だって、最後に見た花が萎れていたら悲しいでしょう? 花はね、枯れる時に泣けばいいのよ」
「でも、泣いている幽香さんも見たいなんて思うのは、ダメですか?」
「……それは、ダメよ」
「好きな人に好きなことを望んだら、ダメですか?」
「……墓穴掘ったわ」
「ふふふ……本当に、幽香さんは、可愛いです」
「ほ、褒めても何も出ないわよ? それに、私だって、今、本当は、泣きたくて、泣きたくて、どうしようもないのに――」
「もう、幽香さん……泣かないでください。幽香さんには泣き顔は似合い……ゴホッ、カ、ハッ――」
「リグルッ!?」
「いえ、ちょっと、咳が出た、だけですから……、幽香さん、手、握って下さい」
「……これで、安心できる?」
「はい、安心します……ああ、そろそろ日が、暮れますね。世界が、暗くなっていく」
「まだ、よ。まだ日は沈まないわ――」
「幽、香さん、ああ、日が沈んで、もう真っ暗だ」
「大丈夫、私はここにいる」

 命の灯火が、風に吹かれて静かに消え逝く。
 リグルが幽香を見て、幽香がリグルを見た。
 幽香がリグルを撫で、リグルが幽香に笑む。
 それは、彼女の精一杯の幸福の笑顔だった。
 まるで、今にも、死んでしまいそうな――。

「幽香、さん」
「何、かしら?」


「    、    ――――」


 そしてリグルは、永遠の眠りに就くように、静かに目を閉じた。
「――リグ、ル?」
 返事は、無い。
 それでも、眠るように目を閉じたリグルの顔は、幸せそうに微笑んでいた。
 幽香はリグルを抱き締める。止まった心臓、止まった呼吸、止まった生命。それでも、微かに残る、彼女の体温、彼女の笑顔、彼女の、温もり。
 その温もりを、逃がさないように。
 幽香は、ぎゅっと、しっかりと抱き締めた。
 抱き締めた体は、怖ろしいほどに軽かった。
 こんなにも、命というものは軽かったのか。
 そう、思えるほどに。
 そしてもう、彼女の笑顔は、永遠に見ることができない。
 彼女との思い出が、走馬灯のように駆け巡る。
 ふとした邂逅。彼女の笑顔。始まる日々。教え、教えられ、時には仲違いした日もあった。それでも、仲直りして、そして笑いあった。楽しそうな笑顔。絶対に忘れない、太陽のような、笑顔。
 涙が、止まらなかった。
 それでも、
 想いは残る。記憶は残る。
 いつまでも、種のように。
 そしてまた、花を咲かす。
 いつかまた、時間を経て、
 何処かでまた、出逢える。
 そう、信じて。
 黄昏の橙に包まれた向日葵畑に、一人の嗚咽だけが、いつまでも響いていた。


 蛍火は幻想のように儚く消え逝き、
 そして、斜陽に散り逝く向日葵が、夏の終わりを告げていた。



<了>

















〜あとがき〜

 生きている者はいつか死ぬ、それは人間も然り、妖怪も然り、そんな中で悔いの無いように生きることが出来る者は少なく、それでも悔いの無いように生きた彼女は泡沫に消ゆ、夏の陽が翳る花畑の中心、静かに佇む蛍の墓(Bustum Lucciolae)に捧ぐは、一輪の大輪、地上の恒星のような向日葵の花、花言葉は、光輝。
 この作品は、月刊ナイトバグに<初夏><仲夏><晩夏>の三回に渡って投稿させていただいた作品です。





モドル

inserted by FC2 system