寝ずの可惜夜ブルームーン 



  ††


 さらさらと、風に髪は流れ、
 はらはらと、雪は舞い踊る。
 するすると、リボンが解け、
 そしてまた、固く結ばれる。
 ただ皓々と、月は空に在る。

 月夜。
 沈む音。
 静かな夜。
 すらすらと、
 耳に囁くのは、
 筆が紙を走る音。
 そして音は止まり、
 続いて墨が擦れる音。
 硯に磨られる墨は黒く、
 冬空を覆う夜の帳の様で。
 今度は紙を捲る音が響いて、
 そしてまた、筆がさらさらと。
 ふと視線を障子の外へ向けると、
 その、墨のように塗られた黒には、
 星のような白い雪が鏤められていて、
 思わず手を止めてしまうほどに美しく。
 開かれた障子、風は無いから寒くはない。
 それに、暖かな体温が、伝わってくるから。
 音が雪と一緒に積もってしまうからだろうか、
 擱かれぬ筆の音だけが、月夜の静寂によく響く。

 知識と歴史の半獣である上白沢慧音は、この幻想が行き着く果ての地で真実の歴史を紡いでいる。
 そも、真実の歴史とは、この世で起こったことをありのままに記した歴史のことを示す。『歴史は記されなければ歴史とは成り得ない』――それは、慧音が常日頃から自身の念頭に置いている箴言でもある。
 たとえば、もしも誰かがどこかで死んだとしても、死んだという事実を誰も知らなければ、その人間は存在すらしていなかったことになってしまう。氷が溶けても、溶けたという事実を誰も知らなければ、そもそもそこに氷など無かったと認識されてしまうのと同じように。
 だからこそ慧音は――その身に歴史を操る白澤の力を宿す上白沢慧音は、神獣の力を使い、満月の夜に全ての歴史を識ることで、こうして夜を徹して歴史を紡いでいるのである。
 慧音がこうして全ての歴史を識ることが出来るのは、今日のような満月の夜だけだ。この日だけは、慧音は人間ではなく妖怪へと成り変わる。角が生え、尾が生え、陰たる月の光を受けて白沢へと――紛う事なき妖怪へと変化する。
 忘れ去られた終の棲家で、誰もが忘れられないように。
 全てのものは彼女によって、歴史として書き留められる。

 ――それならば。
 歴史を紡ぐ彼女の歴史は、一体誰が記すのだろうか。

 記される歴史に、主観は不要だ。主観が入ってしまえば、それは事実ではなく虚構となってしまうのだから。故に歴史を記す第三者は、ただ坦々と――そして淡々と、自らの立場を排除して事実のみを描かなければいけない。
 だから彼女はこう思うのだ。  慧音はきっと、孤独なのだと。
 歴史を見、歴史を識り、歴史の中心にすら立っているはずなのに、慧音は歴史の流れの外にいる。まるで台風の目のように、轟々と流れていく歴史という渦を、慧音は凪の中でひっそりと見つめている。
 誰の目にも留まる事なく、誰からも褒められる事なく、誰からも讃えられる事なく、塵埃の如く堆く積もり重なっていく歴史を、何も言わずに記していく。
 不憫だと、思った。
 憐憫の情さえ、抱いてしまうほどに。
 けれど、そんなことを思うのはきっと間違っているのだろう。慧音は歴史を記すということに使命感を抱いているし、それが自分の運命だと受け容れている。――歴史を識る白沢の力を持つ自分の、それが使命だから、と。だから、それを哀れみの眼差しで見てはいけないことは理解しているつもりだ。
 理解しては、いるけれど。
 それでも――独りはやっぱり、寂しいから。


 藤原妹紅には、全ての歴史を知る由もない。不死という誰もが羨むような力を手にしていたとしても、全ての歴史を識ることは叶わないのだ。それ故に、彼女に貸す手はどこにもなく。
 それでもこうして、何か出来ないかと悩みながら、妹紅は慧音と共に座っている。
「…………慧音」
 慧音の頭に生えた武骨な角。妖怪であることを敢然と示すそれを滑稽ながらも可愛らしく飾るのは、一切れの赤いリボン。そのリボンをするりと片手で解きながら、妹紅は呼ぶ。
「何ですか?」
 振り返らずに返ってくる声。目線は紙に落としたまま、筆は止まることなく書簡に文字を紡いでいる。
 その文字の羅列は、見知らぬ誰かの歴史だった。妹紅も、記している慧音でさえも知らぬ、この幻想郷のどこかで生きているであろう誰かの歴史。

 ――顔も知らぬ誰かの歴史を示して、一体どうなるというのか。

「……いや、何でもない」
 有耶無耶に返事を濁して、解いたリボンを再び角に結び始める。その行為自体に意味は無い。意味もないし、理由もない。結んだところで何も起こらないし、解いたところで誰も得をしたりしない。
 一旦リボンを結ぶ手を休めて、妹紅は床に大人しく寝ている慧音の尻尾を優しく撫でた。おおよそ妖怪の象徴とは思えないほどに柔い手触りで、少し強く掴んで引っ張ると、放してくれと言わんばかりに尻尾が大きく揺れた。
「………………」
 そもそも。こうして慧音の傍に居る理由が、妹紅には一切無いのだ。
 慧音の傍に居る理由も、慧音と肩を並べる意義も。
 手伝うこともできない、一緒にいる理由もない、
 それでも、今こうして、共に居る。
 そうして妹紅は、改めて気付かされる。
 自分は、何も持っていないということに。
 死なない体に成り、全てを焼き尽くす炎をも会得して、しかしその手からは人としての何かがぽろぽろと砂のように零れて落ちていって、気付いた時には、もう何も残っていなくて。
 残ったのは、人でなくなった、藤原妹紅だった何かの残滓と、そして憎悪に塗れた負の心だけだった。
 不死鳥は灰から帰る――孵る――還る。しかし、還った先が不完全ならば、不完全な不死は再び負に塗れて死に、そしてまた不完全に還る。穢い灰から還る鳥は、それも亦、穢い鳥なのだ。
 そんな穢く焼き焦げた灰に、一体何ができるというのか。
 ――何も、できない。
 そう、何もできないから、こうしてリボンをただひたすらに、解いて結んでを繰り返しているのだ。
 結びきってしまえば、終わってしまう。
 解ききってしまえば、終わってしまう。
 一条の儚い理由が、容易く切れてしまう。
 だから、慧音と共に在るには、こうしてリボンを弄り続けるしかない。
 長い間人と交流を絶ってきた、不器用な妹紅には、誰かと繋がっている方法が、それしか思いつかなかった。
「……………………」
 慧音を後ろから抱きかかえるような体勢のまま、妹紅は再び慧音の角に結ばれたリボンに手を掛ける。
 一辺を引っ張るだけで、蝶々結びはいとも容易く解けてしまう。結ぶのにいくら時間が掛かっても、解くのは一瞬も掛からない。
 それは、世界の関係を、そして人と人との関係を思わせる。
 いくら堅牢に築いても、崩れ落ちるのは一瞬だ。
 解いたリボンを、妹紅は再び結び始める。角にぐるりと一回りさせ、ぎゅっと重ね結びをする、そしたら片方で輪を作り、その輪の根元をもう片方で括り、できた輪にリボンを通して、そして両方の輪を引っ張る。
 象牙色の角に映える、赤いリボンの蝶結び。そのリボンの形を整え、気に入らないような素振りを見せて、また解く。このままでは夜が明けるまでにリボンが擦り切れてしまいそうだなと妹紅は乾いた笑いを漏らした。漏らして、私は何をやっているのだろうと溜め息を吐き、 

「――知っていますか? 妹紅」

 慧音が、不意に口を開いた。
 振り向かずに、筆を走らせたまま。
 雪の夜だからだろうか、慧音の声は冬の空気を震わせるように凛と響いて、妹紅の鼓膜を驚くほどに振るわせた。
 その振動は鼓膜から脳へと伝播して、妹紅の心に不安を齎す。
 ――迷惑だから出て行けと言われたら、どうしよう。
 自覚は、あった。今自分は、慧音の邪魔をしてしまっているという、自覚は。
 満月は、月に一度だけ。その日は、慧音は夜を徹して歴史の編纂作業をする。それを、妹紅は知っていた。知っていて、こうして満月の夜に押しかけて、ただ慧音の後ろに座って夜の時間を過ごしている。
 だからといって、邪魔をしたくて来たわけではない。
 それじゃあ、何をしたくてここに来たんだろう?
 心の中で、そう自問する。
 しかし、自問しても、自分の心の中に答えが見えてこない。自分自身の心の内が、わからない。
 妹紅は考える。答えを探すために考える。考えて、考えあぐねて、しかし考えるのを止めた。止めて、慧音の言葉を待った。
 慧音の声色からは、表情が読み取れなかった。それに、慧音の後ろに座っているから、顔を覗きこむこともできない。
 だから、怒られると思っていた。

「……今日は、今月二度目の満月なんですよ」

 慧音は、微笑んでいた。
 筆を滑らせる手を止めて、慧音は開け放たれた障子の外へと目を遣った。それに連られて、妹紅も外へと目を向ける。
 障子の外では、小さく咲いた白い六つの花が、ふわりふわりと音も無く、しんしんと積もっていた。
 誰に憚ることもなく、しかも積もれど溶けて消えてしまう。
 それはまるで歴史のようだと、妹紅は思った。
 人々の心の底に記憶として積もっていき、しかし時が経てば色褪せ、そして終には跡形も無く消え去ってしまう。
 泡沫のように、儚く。
「その月に二度目の満月を、ブルームーンと、そう呼ぶそうです」
 そして、吸い込まれそうな黒が広がる空に。雪が降ってきているのに、一掴みたりとも雪雲が存在していないその空に、それは浮いていた。
 まあるいまあるい、満ち満ちた月。
 黄色く淡い光を放つ、瑕無き珠玉。
「ブルームーン……青い月、か」
 青い月。
 滅多に見ることができない、青い月。
 妹紅は、呆けたようにその月を仰いでいた。
 憎んでいた姫が住んでいた場所。憎んで、憎んで憎んで、憎んで憎んで憎んで、憎んで憎んで憎んで憎んで、それでも腕を伸ばしても届かなくて、翼を広げても辿り着けなくて、夜毎に人を嘲笑うように爛々と輝いていた衛星。

 妹紅は、その月に心を奪われていた。
 憎んでいた月が、こんなに美しく見えたのは、初めてだったから。

「ええ、滅多に見られない、特別な月なんです」
 いつの間にか慧音は、振り向いて妹紅を見据えていた。
 全てを見届ける慧眼、曇りなき双眸で妹紅を見ていた。
 筆を握っていた手は、今は妹紅の冷えた手を握っている。
「こんなに特別な夜だから。――理由なんて、それだけで十分ではないですか?」
 だから、私に逢いに来てくれたのでしょう?
 嬉しそうに、慧音はそう言った。
 その言葉に、妹紅は何も言い返せなかった。
 流石は慧眼と呼ぶべきだろうか――慧音には、妹紅の心の内など、全て筒抜けだったのだ。
 ならば――それならば。
「それじゃあ、慧音は何の為にその歴史を綴ってるんだ?」
 使命?
 運命?
 義務?
 強制?
 頸木?
 その問いに、慧音は「一緒です」と呟いて、そして月のように微笑んだ。

「歴史を綴るのに、理由が必要ですか?」

 単純明解。
 理由がなければ、事は成せないのか。――否、理由がなくても、事は成せる。
 それでも。
 妹紅は拳を握る。自分の不安を、握り潰すように。
「確かに歴史を綴るのに理由はないかもしれない。逢う為の理由なんてのも、いらないかもしれない。それでも私は、不安なんだ……慧音は私を受け入れてくれる。でも、慧音に受け入れられる理由が、私にはない」
 妹紅は、慧音との確固たる繋がりが無いことが、恐怖だった。
 こんな私でも、慧音は受け入れてくれた。それは、とても嬉しかった。慧音は妹紅にとって、数少ない、いや、唯一の気の置けない友人だ。
 しかし、慧音は私を受け入れる理由があるのだろうか?
 私には、慧音に受け入れられる理由があるのだろうか?
 手を伸ばされても、こちらから伸ばせる手がなければ、その手を取ることはできない。絆という字は『半分の糸』だ。糸を半分ずつ差し出して、そこで結ばれなければ成り立たない。そもそも伸ばす糸がなければ、関係は成り立たないのだ。
 そして妹紅には、リボンのように細く頼りない布切れを騙し騙しに伸ばすことでしか、繋がりを維持できない。

 妹紅には、慧音との繋がりが解けてしまうのが、怖かった。

 しかし。
 だから。
 慧音はくすりと笑って、それなら、と言葉を紡いだ。
「……こんな月夜は、人間だけでなく、妖怪も鼻歌を歌いながら跋扈します。もしかすると、私が記しているこの『歴史』が、どこかの物好きに奪われるかもしれない。それに応じて、私も襲われてしまうかもしれない。私は歴史を守らなければいけない、だから、私を守ってくれる人は、いない」
 慧音は妹紅の手をとって、慧音は妹紅の瞳を見据えて、
 そして、今宵の月のような満面の笑みで、こう言った。

「――だから、私を、守ってください」

 これで、ここに居る意味ができたでしょう?
 月光のような柔らかな笑みは、妹紅の心に光を与える。そして、そんなことを言った慧音は机に向き直って、何事も無かったかのように再び筆を走らせ始めた。
「……ああ、わかったよ」
 慧音の背中を見つめて、そして妹紅はその背に自分の背中を預けた。
 背中から伝わる温もりが、愛おしい。
 ふと、必死に理由を探していた自分が馬鹿みたいに思えた。
 慧音がいて、
 自分がいて、
 それで、十分なのだ。

「お望みとあらば、いつまでも」
 
 ブルームーンが見惚れるくらいに美しかったのは、慧音の青色だったからかもしれないなあ――なんて、そんなことを考えて、妹紅は一人破顔するのだった。










 ††




〜あとがき〜

 理由がなくても、傍に居ることはできますよね。きっかけなんてそんなもんだと思います。眠るには惜しい夜、青いお月様だけが覗いている、慧音と妹紅のささやかな絆のお話でした。





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