慧音と妹紅と年越しと。 〜月隠りΠανσεληνοΣ




 ††
 
 
 年越し蕎麦は、年越しの前に食べなければいけない。
 別にそう決められているわけではない。年越し蕎麦なのだから年を越しながら食べてもいいじゃないかと宣う人もいるだろうし、年を越してから食べる人もいるだろう。これは、食事という行為に遊楽を求める人間ならではの思考だ。
 年越し蕎麦は、蕎麦のように細く長く生きられますようにという意味を込めて食べられ始めたとされている。他にも、蕎麦は切れやすいから次の年に苦労や悪い縁を持ち越さないように切り捨てる、という説もある。あるが、どうやらこの説は後付らしい。あとは、蕎麦粉が金を集める縁起物だからだとか、薬味の葱が神職の禰宜に掛かっているからだとか、その由来は諸説ある。ただ、その諸説を鑑みるに、昔の人も縁起を担ぐのが好きだったらしい。
 ちなみに、縁起を担ぐという言葉があるが、縁起とは元々『因縁生起』と言い、『此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す』という、難解に見えるも至極簡単な理論によって表されるものだった。簡潔に表すならば『生きているから死ぬ、生きていないから死なない』だろう。極々当たり前の法則で、これは、妹紅、貴女にも当てはまることでしょう。――ダメですね、こうやって寺子屋での授業のような説明口調で話していても、どうしても妹紅に対しては丁寧口調になってしまう。……まあ、閑話休題、そこから由来して、今は吉凶の前触れだとか物事の起こりなどの意味を冠している。その他にも社寺や宝物などの沿革や由来などに使われていることが多い。『信貴山縁起絵巻』の縁起などがそれに入るだろう。
 そうそう、そういえば里の近くに降りてきた船の尼公なのだが、どうやらその『信貴山縁起絵巻』に画かれている命蓮の姉君という話ではないか。どういった経緯で彼女が魔法使いへと成り下がった、いや、成り上がったのかは知らないが、妖怪を擁護する寺の尼君となれば、人間を護る立場の私としては、彼女と少しだけ話し合ってみるのもいいかもしれないな……。
 と、
 慧音はそこまで語ってくれた。
 器用に、ずずずと蕎麦を啜りながら。
「……慧音、食べながら話すんじゃないって、子供の頃に教わらなかったか?」
「子供の頃、ですか……大分昔ですから、ぼんやりとした記憶にしか残っていませんね」
「そんなこと言ったら私だって大分昔の話だけどさ……うん、美味い」
 あまり記憶に残っていない過去を回顧しつつ、慧音が振る舞ってくれた年越し蕎麦を啜る。慧音には毎年蕎麦を振る舞ってもらっていて、そして今年は月見蕎麦だった。お世話になっている老夫婦から手打ち蕎麦の打ち方を教えてもらったらしく、今年は慧音お手製の手打ち蕎麦を食すこととなったのだが、これがまた麺がしこしこと歯切れ良く、それでいてちゅるんと呑み応えのある蕎麦で大変乙なのだ。
 慧音曰く、『料理も歴史なのです』だそうだ。材料を調理して料理となる過程を記し上げれば、なるほど、それも一つの歴史なのかもしれないなと、まだ蕎麦の上に崩れずに真円を保ったままどしんと鎮座しているお月様をみながら、そんなことを思った。
 ちなみにこの卵は、私が里の人から年末のお歳暮として戴いたものだった。

 そう、私が、だ。

「――妹紅、卵が嫌いなんですか? なら、私が食べちゃいますよ?」
「ちょ、うあーそれはやめろ! やめてくれけーね!」
 慧音から伸びてくる箸の魔の手を、同じく箸で打ち払う。慧音の箸は蒼い箸で、私の箸は紅い箸。紅と蒼が炬燵の天板上空で交わり、擦れ、そして乾いた木の音を立てて再びぶつかり合う。箸の先端から垂れた汁の雫が、炬燵の天板に血飛沫の如く飛び散る。年末の決戦、箸と箸の、卵を賭けた真剣勝負。しかし卵がかかっているのは蕎麦とはこれ如何に。
「とりあえず、箸で遊ぶのは止めにしますか」
「攻め入ってきたのはどっちだったかなー、けーね?」
 箸を伸ばした腕を戻し、さあ? と白々しく首を傾げる慧音を尻目に、大人しくまた蕎麦を啜る。そろそろ除夜の鐘が聞こえ始める頃で、しかし幻想郷には鳴らす鐘などどこにも無い。ということは、幻想郷で毎年聞いている鐘の音は、外のどこかで幻想になった鐘の音なのだろう。信仰を失ってこちらへやってきた神もいるぐらいだ、鐘を鳴らすことで煩悩を払うという伝承が廃れて鐘の音がこちらへ流れてきても、おかしくはない。
 年を越す前に煩悩を払って新しい年を迎えるのが、除夜の鐘の役目だ。どうせなら、年を越す前に思いの丈を打ち明けるのもいいだろう。
 未練がましく箸を迷わせながら、まだ崩さずにとっておいた卵に、すっ、と箸の先を入れた。
「――この卵はさ、里の人たちが私に『年越しだから』ってくれたものなんだ。私にだよ? 今までこんなことは無かった。慧音と出逢ったのは何年も前のことで、それでも里と関わるようになってきたのはつい最近のことだ。それなのに、慧音、お前さんがお世話になっているあの八百屋の婆ちゃんがさ、八百屋なのにわざわざ卵を私にくれたんだよ。だから、この卵は、私にとっての新しい年への架け橋なのかな、って……」
 だから、最後に食べたいと思った。
 いつまでも、取っておきたかった。
 ただ、それだけだ。
 つー、と、黄身が汁に広がって、そして凝固していく。
「だというのに、慧音ときたら食い意地ばっかり張って……全く、花より団子。そんなんだから独り身なんだよ。せっかく」
 せっかく、
 綺麗なんだからさ。
 そう、言い掛けて、
 慧音が、私を見ていた。
 とても嬉しそうな顔で、私を見ていた。
「一度人を辞めた身でありながら、心の炎を沈め、また人となりて道を歩む。その卵は、貴女が人間として受け入れられた証ですよ、妹紅」
 人間を辞めたものが、人間として。
 人と離れた者が、また人と交わって。
 未練がましく、人の温もりを求めているようで――
 今まで鳴りを潜めていた時計の音が、はっきり聞こえた気がした。見れば、時計の長針と短針が、そろそろ頂点を打とうとしていた。
 丁度食べ終わったらしい慧音が、器にことりと箸を置いた。
「今年ももう、あと少しですね」
 もういくつ寝るとお正月などと懐かしい唄を口遊みながら、慧音は炬燵から足を出して立ち上がった。その拍子に、冷たい空気が炬燵の中に流れ込んできて、私は素足を擦り合わせた。
「あ、ああ、そうだ、慧音、今年も初詣に行こうよ」
 障子に向かって歩く慧音の背中に声を投げる。二人で神社へ初詣に行くのは毎年恒例の行事で、二人で振袖を着ていくのが常だった。
 慧音と出逢った時から、毎年、変わらず。
 時々刻々と変化する中で、毎年、変わらず。
「ええ、行きたいのは山々なのですが……」
 少し悲しそうな声色の慧音。ふと見えた横顔は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。その顔を隠すように掌を口に当て、はぁ、と一息、白い息が漏れて儚く消える。慧音は赤紫色に悴んだ指を障子に掛けて、そして静かに障子を開いた。
 すうっと、まろやかに染み入る冷たい空気が部屋に流れてきて、
 ひら、ひらと、六の花が舞う真冬の空に、

 凛と、月が満ちていた。


「知ってますか、妹紅? 今年は、正月の深夜が満月なんですよ」


 満月。
 しんしんと降り積もる雪の中で、丸く円く真円を描く月が、ぽっかりと浮かんでいた。
 雪が降る音すらしない、雪が積もる音すらしない、ただただ静寂に包まれた空間を、月は柔らかく、そして妖しく照らしている。
 雪明かりのバックライトに彩られた世界で、
 カチッ、と、長針と短針が重なった音がした。
 無機物な音が知らせる、あっという間のハッピーニューイヤー。
 そして、
「全く……晦――月隠りだというのに」
 その妖しい月光を受けて、
 冬の空気に、手を広げて、
 慧音の髪が、慧音の服が、
 青と黄色が、混ざり合う。
 慧音に角が、慧音に尾が、
 人には無い、獣の何かが、
 生えて、膨れて、逆立つ。
 妖の姿へと、化けていく。
 白の背景、黄色の月光、そして、緑の彼女。
 妖しい光を受けて、慧音が、白沢へと姿を変えた。
 慧音は満月の夜になると白沢へと変化する。そして、歴史を統べる白沢の力と共に、幻想郷内の全ての歴史を創るのだ。
 創り上げる。
 歴史を手にし、そして記す。
 過去を記し、戒めを記し、そして未来へと伝える。
 それが、白沢の血を背負った、上白沢慧音という半獣の使命。
 そしてそれは、今日のような、麗しい月が完璧な真円を描いている時だけだ。
 まるで、卵の黄身のようだと月だと思った。
 未練がましく、壊したくない、完全な月。
「今日は一月に一度の満月の日。今夜しか歴史を纏める日は無いのです。――だから、今年は一緒に初詣に行けません」
 振り向いた慧音は、ひどく寂しそうな顔をしていた。
 自らの運命に従って、自分を押し殺してしまった者の、顔。
 そこでようやく気付いた。

 ――振袖が、無い。

 そうだ、去年も、一昨年も、その前も、その前も前も、振袖が見えるように準備してあったじゃないか。
 慧音はいつも準備してくれていた。慧音は毎年待っていてくれた。
 私は、与えられてばかりで、
 自分からは、歩み寄らないで。
 だけど――今日は。
「慧音」
 月が廻って、月が巡って、晦を越えて、今日のこの日に重なって、月は篭らず煌々と光っている。
 不思議な不思議な、巡り合わせ。
「初詣もさ、さっきの蕎麦の話みたいに、いつ行ってもいいと思うんだ。だから今日は、別にいいかなって思った。思ってしまった」
 初詣だけなら、一人でだって行ける、いつだって行ける。
「でもさ、慧音との今年の初詣は、一年に一度きりしかないんだよ。――満月は、一年に十二回もあるけど、今この一瞬は、今しかない」
 天体は、巡り廻っていつかまた重なり合う。どんなに長い時を経ても、必ず、いつか。
 月は一年に十二回満ちる。
 月は一年に一回は食べられる。
 千年もあれば、一度は正月に満月で月食は起こりうるだろう。
 でも、
 人と人は、一期一会だから。
「嫌な話だけどさ、受け入れたくない話だけどさ、私は死なないんだ。今までも、今でも、そしてこれからも。でも、慧音は死ぬ。いつか死んでしまう。明日にでも、死んでしまうかもしれない。だから私は、今が惜しい――愛おしい」
 これは私のエゴだ。彼女は白沢で、歴史を纏めなければならない。そしてそれは月に一度、満月の日。だから彼女は今日、元旦を祝わずに篭らなければいけない。
 晦に、月が篭るように。
 だけど、
「じゃあさ、慧音、これは知ってるか?」
 今日は、本当にツキが良い。
 慧音に促すように、月に指を差す。遥か遠く、手を伸ばしても腕を伸ばしても想っても願っても届かないほどに遠く近く近く遠い月に指を差す。
 恨んでも恨んでも、何も言わぬ月。
 その、月が、
 少しずつ、少しずつ、欠け始めていた。
 慧音の髪が、慧音の服が、
 何も無かったように、色を戻していく。
 慧音の角が、慧音の尾が、
 何も無かったように、するすると消えていく。

「――今日は、部分月食だ」

 月食。
 月を、食む。
 完璧な月は、影に食われて満ち欠ける。
 満ちているのに、欠けている。
 完全なのに、不安定。
 まるで、今の私みたいだなと、そう思った。
 人間じゃないのに、人間で。
 人ではないのに、人として。
 生きていないのに、生きていて。
 それでも、慧音がいたから。
 慧音がいたから、だからこそ。
 ――全く、今日ぐらいいいじゃないか、お月様。
 いつもいつも、憎たらしいことばかりしやがって。

「そんな月、私が食って燃やしてやるよ――振袖なんかなくても、今日が満月でも、慧音がいて、私がいる。それだけで十分だ!」

 慧音の手を強引に引いて、一気に外に駆け出す。
 ふわふわと綿雪が積もった外は手が悴むほどに寒かったけれど、こうして体を寄せ合っているだけで、心は温かかった。
「寒いな……」
「ええ、寒いです」
「でも」
「……温かい」
 手を握る。腕を絡める。肩を寄せる。頬を寄せる。顔を寄せて、額を寄せて、瞳を覗く。
 別に初詣だからといって、振袖なんか着なくたっていい。特別な日だからって、特別なことをしなくてもいい。

 貴女と出逢えたことが、特別なのだから――

「とか、そんな気障な台詞を言える性質じゃないからさ、一言言わせてもらうよ。……ありがとう」
 慧音は私の太陽だよ、月の反射経由だけどさ、と、何にでもなく、誰にでもなく、そう呟く。
 もし今日が月食ではなかったとしても、私は慧音の手を引いて駆けていただろう。
 変わらない一年を願うための、変わった一日を共に過ごすために。
 彼女と共に、歩み続けるために。
 私を守ってくれた彼女を、今度は私が守りたいから。
 慧音には悪いけど、大事なのは、過去よりも、今の一瞬だ。
「さて、さっさと御参りして、さっさと炬燵に戻ろうか」
「やっぱり寒いものは寒いですから……」
「じゃあさ、抱き締めたら、あったかくなるかな?」
「!? やっ、あっ、もこ――」

 月食は、もう少しだけ続きそうだった。






 ††












〜あとがき〜

 完璧な月(ΠανσεληνοΣ)だけではつまらない、変わるからこそ、完璧じゃないからこそ、世界は美しいのです。とか、気障な台詞は苦手です。
 今年の元日は、満月に部分月食と、深夜からお月様のお蔭様で楽しい日になりました。ついったーで柄も無く騒いでました。とりあえず、年越し蕎麦が年を越してから食べてもいいのなら、年越しの話を年を越してから投稿しても、いいですよね? 月が隠るのに満月(ΠανσεληνοΣ)、年も月日も、満ち欠けて、また新たな日々の、はじまりはじまり。
 そんなわけで、あけましておめでとうございました。今年は頑張る。いや、今年も頑張る。2010年だって、一期一会ですから。





モドル

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