忙中閑有り、お狐日和 〜Roman de renart Ficus〜




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 忙しき中にも閑は有り、まあまあ狐に抓まれたと思って。

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 八雲藍は忙しい。
 主は基本的に十二時間睡眠で夜行性でその上面倒臭がり屋であるし、愛すべき式はまだまだ仕事を任せるには頼りない。屈強な弾幕を持つ他の式神たちは、弾幕以外ではその他偵察や迎撃といった簡単なことしかこなせない。
 故に、藍がほぼ全ての仕事をこなさなければいけない。
 ハードである。
 スキマ妖怪の式たる彼女の主たる仕事は、結界の綻びを修復することである。
 幻想郷と外の世界を隔てるのは、常識と非常識の境界でもある博霊大結界。この結界に揺らぎが生じると、幻想と現実の境が曖昧になってしまい、果ては幻想郷の存在が危ぶまれる。だというのに、主人たるスキマ妖怪は、悪戯やほんのちょっとの遊び心で容易に穴を開けてしまうのだから、閉口頓首、もう何も言いようがない。
 ただ一言、面と向かって「止めてください紫様」と言えばいいだけの話なのだが、あの気まぐれで雲よりも空気よりも掴みどころが無い性格にはそんなことを言っても全く通じないだろうし、第一、式として仕える身でそんなことを言ったら……嗚呼考えただけでも震えが止まらない。
 だからといって博霊の巫女に修復を要請しても、「めんどくさい」の一言で一蹴される。そもそも博霊の巫女は、結界を操る者でありながら、結界を修復する方法を知らない。というのも、博霊の巫女の仕事は異変解決と妖怪退治、それは幻想郷の「中」を維持すること。だから、「外」の修復はある種巫女の門外漢なのである。
 門外漢ならば「餅は餅屋」、頼むべき人に頼まなければいけない。それ故、春雪異変の時に、巫女は紫様に結界修復を頼み込んできたのだ。
 ああ、だというのに。
 巫女とお遊びまでしておきながら「じゃあ、藍に直させておくわね」とは、一体全体どういう了見なのか。
 確かに主が冬眠中の間は、式たる私が結界の監視やら管理やらをしている。しかし、冬眠を終えて目覚めても任せっぱなしとはどういうことなのか。しかも今回は幽明の境の修復である。剰え藍には、博霊大結界の修復作業があると言うのに。
 だからといって口答えをすれば、弄られる。
 きちんと仕事をこなさなければ、叱られる。
 ジレンマである。
 知らず知らずのうちに溜め息が出てしまうが、溜め息ばかり吐いていても始まらない。このジレンマを手っ取り早く解決する唯一の方法は「きちんと仕事をこなす」なのだし、藍は家事もこなさなければいけない。いつも通りの時間に夕餉の支度を始めるにはあと壱萬四千八佰弐拾秒ぐらい。と言ってる間にも弐拾参秒が過ぎてしまった。まあ二刻もあれば粗方修復の目処は立つだろう。ちなみに二刻は今で言うと四時間ほどである。

 今藍がいるのは、狭くも広い幻想郷の遥か北東、艮の方角、外と幻想郷の境である。
 目の前には、ここと外を隔離する博霊大結界がどっしりと張られている。といっても、結界自体は不可視のものである。
 結界の先、何かあるはずのその先が、まるでEEたる水面に幾重もの波紋が広がるように揺れていて、曖昧模糊、ただただ茫々としている。
 そう、結界自体は不可視でも、結界の先がぼんやりと曖昧にしか見えなくなってしまう。それで結界の場所が判断できるのである。
 とはいえ、そう見えるのは、博霊の巫女や八雲紫といった力を持った者だけ。一応藍も妖狐としてはかなり力を持つ部類で、目の前の結界はそのように見えているが、力のない者には何も見えないらしい。それこそ、その先がどこまでも続いていて、幻想と現実の境がないかのように。
 この博霊大結界は、いわば常識と非常識の差異である。妖精など、そんなことを意識せずに暮らしている者にとってはここは何もない場所、しかし、その何もない場所にある結界が非常識を阻むのである。主観では自分は普通と思っていても、客観的に視たら、それは普通ではないのだから。
 このように、この結界は物理的なものではなく精神的なものである。だから、これを修復する方法も、身体的(フィジオロジカル)なものではなく、
(――精神集中)
 精神的(サイコロジカル)なものである。
 境界が緩んでいると言うことは、その事柄の線引きが曖昧になっているということ。結界自体が破損してしまえばそれは幻想郷の最期、あとは博霊と八雲に受け継がれし秘術を使うしかないのだが、結界が緩んでいるだけなら、それを修復する方法は簡単、その事象に干渉して、元通りに線引きをしてしまえばいいのである。
 第三者の介入。それは、裁判も、仲裁も、仲介も、一緒。
(――えーっと、ここはこう、これはこうで、っと)
 幾度も同じような作業をしていると、やはり手馴れてしまうもの。結界が緩んでいる箇所の確認、干渉、そして修復。それの繰り返し。こう書くと簡単ではあるが、その前段階に「精神的に結界に干渉する」という高度な技術を要する。だから、まだ橙には任せることができない。
 それに。
(紫様に直々に頼まれたのだから、自分でやらなければ)
 責任感、というものだろうか。
 それとも、使命感だろうか。
 忠誠心、かもしれない。
 どれにせよ、そんな心は、一人で生きていた頃には持っていなかった。
 紫が千年を越えて生きる妖怪とはいえ、藍とて優に千年を生きている妖狐である。人とは相容れない獣としての身、妖としての身。馴れ合いは好きではなかったが、他者と共にいるのは昔から好きだった。しかし、力無き人間には疎まれ、力有る妖怪には狙われる。故に、一人で生きていた時間の方が長かった。
 しかし、それも遥か過去の話。それだけ長く生きていると、あまり自らの過去に執着しなくなる。大抵そのぐらい長生きするものは、過去と現在に大して差異がないからだ。
(こんな事を言ったら、里の賢者に怒られてしまうな)
 里の賢者は歴史を守る者。彼女の前で過去という個人の歴史を無碍にするようなことを言ったら、頭突きをされてしまうだろう。
(……懐かしい、という感情は、あまり湧かない、かな)
 ふう、と溜め息を一つ吐いて、藍はまた精神を集中させる。感傷に浸っていては作業は進まない。懐かしむのはいつでもできる。大事なのは、遥か過去の回顧よりも今の精一杯。
(全く、九尾をやるのも楽じゃない)
 大体の修復はこれで終了。悠々と回顧している暇もない。あとは主人に確認と微調整をしてもらうだけ。帰ったら早速報告したいところだが、今日は主人は、とある懸案事項で久方ぶりに里へと出向いている。どの道買出しの為に里へは行くのだが、タイミング良く出遭えるとも限らない。
 とにもかくにも、私は私の仕事をこなすだけ。
「さてと……全く、心が亡くなるで『忙』しい、か。昔の人は巧いこと言ったもんだ」


 ††


 八雲藍は忙しい。
 里へ買出しに来たものの、人里はいつもとは違う賑やかさに包まれていた。賑やかというよりは、喧騒といったほうが正しいかもしれない。
 何かの騒ぎかな? と思いながらも豆腐屋で豆腐と油揚げ――村でも随一に美味しい三角油揚げ――を買い、寸分経たぬうちにその油揚げをはむはむと食みながら、道中で出会った隣を歩く半人半霊に訊いてみたところ、
「ああ、それはですね、どうやら明々後日の晩から村の祭りらしいんですよ」
 とのこと。
 なるほど道理で角材やら提灯やらが、あちらこちらに散乱しているのか。辺りに目を遣りながら油揚げを食む。
 祭りの独特な雰囲気は、人の心も妖の心も昂らせる。その土地を知らぬ者でも、その雰囲気に呑まれてしまえば、たちまちその土地と親しくなれる。いわば祭りは、ヒトとヒトとの絆を深める為の、神の謀なのかもしれない。
 しかし、
「おかしいな……」
 祭りの準備としては、どこかおかしい。
 慌しく駆けていく人は、皆東の方角に向かって走っている。対して西の方を見てみると、そんな事には興味が無い、無関心といった様子だ。
 誰の目から見ても明らかにわかる、不穏な空気。
 そして、藍がそう気づくのを待っていたかのように、
「実はですね……」
 隣の半人半霊――魂魄妖夢が、口を開いた。


 村が二つに割れている。
 妖夢の話を簡単に纏めると、そういうことらしい。
 発端は、村の中でも有権者である二つの家が喧嘩してしまったこと。
 一家は、仲村渠(なかんだかり)、もう一家は、四方路(よもじ)。
 有権者と呼ぶほどではないのだが、両家とも村の畑の管理を任されており、村の有事には関わる程度の立場ではある。いわば仮地主といったところだろうか。
 元々はお互いを「仲坊」「よも坊」と呼び合うほど仲が良く、互いに村の発展に貢献してきた兵とのこと。しかし今回、その仲の良さが仇となったらしい。
 村の人口の増加――といっても漸増程度なのだが――に伴い、村では度々畑の敷地面積の確保と分配について重ね重ね話し合われていた。
 その席には例の二人もいたのだが、そこで、敷地分配の折衷案を巡って口論になったのだ。こうした方が無理なく敷地を広げられる、それよりもこの方が皆納得できる、田と畑のバランスは崩してはいけない、あの方が、この方が。
 そしてその口論は、自分たちの利害を考慮してのものではない、村人たちのことを思ってのもの。だからこそ、互いの案は譲れなかった。ついでに、彼らは少しばかし頑固だった。
 そして極めつけは「お前は昔からそうだ、聞き分けがない」という、昔からの仲ならではの皮肉の言葉。

 後は言わずもがな、取っ組み合いの掴み合いである。

 その喧嘩は嘗て無いほどに激しいもので、その後の空気は剣山よりも刺々しい険悪なものだったらしい。互いに打撲で済んだものの、二人の仲の凹み具合は尋常ならざるものだった。
 まだ事は終わらない。その騒動から三日経ち、どうにか仲を取り持とうと片方が仲直りをしようと試みたのである。
 しかし、あんな事にまで発展してしまい、どうにもただでは声を掛け辛い。しかしそこで、時期を見計らったように訪れた、とある出来事。
 それが、今回のお祭り『八雲の夏例祭』である。
 昔からの付き合いだからこそ知っている、お祭り好きという性格。それを利用する形にはなってしまうが、それで仲直りできるのだったら悪くは無い。お互いの非と自分の非を認めて、一言謝るだけでいい。
 しかし、もう片方は、それに気づいていた。気づいていたからこそ、取り合わなかった。そう、一言言葉を交わすだけでもいい、しかし彼らは、少しばかし頑固だった。
 時は関係を風化させる。風化した関係は溝となり、その溝は更に踏み越えることができなくなる。それはまるで、谷のように。
 その谷は未だ橋が掛からず、平行線を辿り、そして今に至る。


 以上が、妖夢から聞いた事の顛末である。
 隣で黙々と油揚げ(二枚目)を食みながら、藍はふと思い出す。
 なるほど、紫様が言っていた懸案事項とはこれの事なのか。確かにこれは厄介だ。
 村の者は日常的に意識していないようだが、元より人間が少ない幻想郷において、人間同士の諍いは大きく影響を与えてしまう。妖怪同士が争い合った大結界騒動のときとは逆、人間同士が争ってしまえば、その隙に妖怪たちが悪意を持って異変を起こす可能性だってある。それこそ、幻想郷のバランス崩壊に直結してしまう。
 紫様の焦りは、大結界異変を招いてしまった者だからこその、幻想郷を愛する者だからこその焦りなのだろう。
「千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ。紫様の気持ちもわかるが……」 
 紫様には、この確執は解決できない。
 藍はそう踏んでいる。
 人間同士の論争に、妖怪が間を割って入ることなど出来はしない。たとえそれが力の有る者でも、だ。
 特に今回は、確かに大きな歪になる前に対処すべきではあるが、まだ『ただの諍い』である。村としても、このような小さな諍いは自分たちで対処したいところで、その小さな諍いに大きな妖怪が出てきては、事が大きくなってしまう。それはあまり望まれない。
 かといって彼らの自己解決を待ち望んでいても、平行線とも堂々巡りとも言えない状況である。いつ解決されるかなんてわかったものではない。
 難儀なものである。
 ならば、そこで必要なのは、発想の転換。
「妖夢、頼みがある」
「なんでしょうか? 藍さん」
「上白沢に伝えておいてくれ。今から狐が、ちょっとばかし里を荒らすとな」
 何事かと首を傾げる妖夢に持っていた荷物を全て預け、ついでに景気付けにもう一枚油揚げ(三枚目)をつまみ食い、藍は体を解す。
「えっ、ちょ、藍さん?」
「たぶん紫様もその近くにいるだろうから、一緒に伝えておいてくれ。『高山流水、呉越同舟』と」
「な、何を?」
 藍の突然の伝言と伺えぬ意図に妖夢はあたふたと狼狽える。その妖夢の額に人差し指を当てて、藍は念押しする。
「あと、妖夢、お前さんは……そう、少しこの世に来すぎている。里の事情に詳しすぎだ。また閻魔様に叱られてしまうぞ」
「いえ、私は、って藍さん――――」
 そして藍は、妖夢の弁解も聞き耳潰し、風を切るように駆け出した。


 八雲の名を冠する例祭。
 それを知ってか知らずか、八雲の姓を与えられた者は奔走する。


 藍は走る。
 そういえば英語で『走る』は『run』だな、などと洒落を考える間も無く、村の東へとひた走る。
 一波乱を起こす為に。
 村の地理関係は大体把握している。把握している、というよりも、インプットされているといった方が正しいかもしれない。結界の簡易修復方法や幻想郷の地理などといった重要なことは、式として、全て紫によってインプットされている。迷うことなど全く無い。
 それに加えて、三途の川の距離を打ち出すほどの計算力を持つ。
(あの角材なら物見櫓でも作るのだろう……物見櫓、物見櫓を使うとなると……盆踊りの太鼓打ちか? なら、踊るためにある程度スペースが必要になる。村の東の広間は確か、ここを北に曲がって、この小道を抜けて……)
 主にも話を持ちかけずに勝手に計画・実行した作戦を差し障りなく進めるために、走りながらも頭をはたらかせる。
 そして、流れる景色を横目に、角を曲がり、その眼前に聳えるのは、
 十メートルはあろうかという、道を遮る白塗り壁の酒蔵。
(あとはあの蔵を飛べばっ――!)
 並の人間には、飛び越えるには到底無理な高さである。

 しかし、今の藍は、化けていた。



「せえのッ――――だあああああああああ!!」



 人と式の体を成した『八雲藍』でありながら、一介の九尾の狐としての妖獣、即ち『妖狐』へと。
 鋭く爪がげた辣腕の腕、いつも身に着けている帽子は無く、人外の狐耳がいきり立っている。
 あらん限りの脚力で跳ね上がり、そして九尾の狐は背に太陽を負いながらクルクルクルクルと宙を舞う。
 それは怪しく、妖しく、しかし目を奪われるような、見事な飛翔。
「あれは――なんだ?」「九、尾?」「なんと、美しい……」
 現に、広間で祭の準備作業をしていた村人たちは、その姿に目を奪われていた。
 中昼の太陽を受けて金色に煌くその姿は神々しく、祭事の準備の喧騒をも止ませる。須臾の静寂、刹那の静謐、瞬間の静黙。
 そして、重力の赴くままに落下し、その歪に獣化した脚で、
 着地。
 高速で落下した衝撃で風塵が舞い上がる。着地の態勢は四足姿勢、浮かべるはニヒルな笑み。その姿は、今昔に語られるような神聖なものではなく、
 人間に害を成す『妖怪』そのものだった。 
「よッ、妖怪が荒らしに――」
 広場にいた者達が一斉に騒ぎ出した。それもそのはず、妖怪に守られているはずの里に、妖怪が現れたのだから。しかし、その恐慌は一瞬にして収まった。

 一睨み。

 それだけで、十分だった。
「――ヒッ!?」
 突然現れた妖怪に立ち向かおうとする者、狼狽えている者、他の里の者に伝えようと駆け出す者、一目散に逃げようとしていた者、そこに居た人という人全員が、まるで蛇に睨まれた蛙のように、足が竦んだように、動けなくなってしまった。
 威圧か、気迫か、それとも制圧か、
 驚怖か、畏怖か、それとも恐怖か、
 その妖気はまさしく、世に平安を齎したとも、世に悪を齎したとも、幾多の帝を誑かしたともされる、千年を生きた九尾のもの。
(まあ別に帝を誑かした記憶は無いけど……なッ)
 村人が動けないその隙に、藍は目的の人物の元へと駆け出す。藍が村人を威圧して動けなくしたのは、その方が移動しやすいから、まだ事を大きくしたくないから、そして目的の者が何処に居るのかを判別する為だ。
 人と物の隙間を縫うように駆ける藍の視界、物見櫓が立つであろう場所の横に、その目的の主はいた。名前は覚えているが、そんなことは今はどうでもいい。
 そう、今はただ、里の為に、紫様の為に、そして幻想郷の為に、二人が仲直りさえしてくれればいいのだから。
 目的の主は驚きながらも、設営中の庇や柱を守るように指示をしている。なるほど、機転が利くじゃないか、流石立場を与えられているだけのことはあると思いながら、一気に距離を詰める。まさかと驚く主、その顔に、藍はその歪な獣の腕で、

 ――指弾「デコピン」

「えいっ」バチン「うぎゃ!」
 壮絶なデコピンを食らわせた。
 何が起こったのかわからず、豆鉄砲を食らった様な顔をする主に、藍は舌をペロリと出して小さくあかんべえをする。ついでに物見櫓の梁になるはずの角材を素手で半分に圧し折ってから、走ってきたルートを再び逆へと走り出す。
 振り向くと、デコピンをされた主はしばらく唖然としていたが、物見櫓の梁を圧し折られたのと狐に馬鹿にされたのを思い出したらしく、周囲に的確に指示を与え、自身は藍が走り去ろうとしている方向へと追いかけ始めていた。さらに喧騒は増している。
 走りながら、舌を出して小馬鹿にしたことよりも梁を壊されたことの方が大きかったのだろうと分析する。しかしこうも上手く喧嘩に乗って追いかけてきてくれると、作戦がスムーズに進むから助かる。
 人里への被害損害は最小限に、しかし、村の西まで喧騒が伝わるぐらいに、お祭り騒ぎのように騒がしく。
(昔はこのぐらいの無茶はしていたものだが、いやはや……)
「狐だ! 狐が出たぞー!」「その狐妖怪をとっ捕まえろ!」
 目立つように母屋と蔵の上を飛び跳ねて、まるで誘導するように、藍は次の目的地――西へと村を飛び跳ねる。


 ††


「ゆ、紫様はいらっしゃいますか!?」
 妖夢が二人分の荷物を持ちながらも押っ取り刀で駆け込んだのは、里の集会所だった。
「何者ッ!」
「白玉楼当主・西行寺幽々子様御付き、魂魄妖夢と申す!」
 警護の男が入り口で怪しげな侵入者を遮るも、白玉楼の名が出ては通さないわけにはいかない。それほど白玉楼の名は、死を恐れる人間にとっては畏怖の対象なのだ。
「……あら妖夢、白玉楼以外で逢うなんて珍しいわね。そんなに慌ててどうしたのかしら?」
 その集会所の奥の奥、八雲紫は上座に悠々閑々と座っていた。
「紫様! えーっとですね、藍さんが、村で、あーっとあのその」
「はい、とりあえず駆けつけ一杯、お茶でも飲んで落ち着きなさいな」
 慌て過ぎて呂律が回っていない妖夢に、紫は駆けつけ一杯のお茶を差し出す。差し出されたお茶は、一年に一回取れるか取れないかという伝説の茶葉『晶翠巒』。
「あ、ありがとうございます……んっ、んっ、プハッ……あっ、美味しい」
 大慌てな妖夢でも、その茶葉の味はわかったらしい。円やかな甘みが苦みをより一層引き立て、全体で茶葉自然の風味が生かされている。
「でしょう? それで、藍がどうしたのかしら?」
「あの九尾の狐がどうかしたのか?」
 横からフイッと顔を覗かせたのは、同じく里の会議に顔を出していた半人半獣・上白沢慧音。蒼みがかった長い髪が人影で揺れている。
「ええっと、ああ慧音さんこんにちは、で、えーっと藍さんの話なんですが、前に紫様からお聞きした村の内部事情を藍さんに話したら、急に藍さんが東に走り始めて……今騒ぎになっているのです」
「騒ぎに……?」
「はい、でも私には何も教えてくれずにそのまま行ってしまって……」
 元々深刻そうだった紫の顔が更に深刻さを増す。紫がどんなに強力な妖怪とはいえ、厄介事は少ない方が良いに決まっている。しかも聞けば自分の式ではないか。とすると、
「……なるほど。そろそろ藍の式を組み直した方がいいかしら? 長い間の内に式変化してしまっているみたいだし」
「ちょっと待て、八雲の。お前さんとこの使いの妖獣が里で暴れている、だと?」
 そこで慧音が話に割って入る。里の人間を守る里守としては、目の前の大妖怪の式が里で暴れているなど言語道断、許し難い状況である。
「そうみたいね……今直々に諌めに行くわ」
 そう言って重い腰を上げる紫に、
「あっと、そうだ、あと藍さんから紫様にと伝言が」
「何かしら?」

「『高山流水、呉越同舟』、だそうです」

 その言伝は、紫の思考に嵌まる部分があったらしい。
「……フンフン、なるほど成程、流石狂っても私の式。ちゃんと考えてはいるようね。暫く放っておきましょう」
 しかしその言葉に、里を守る歴史と知識の半獣が黙って首を縦に振るはずも無く。
「……里を守る妖怪の式が里を荒らしていて、それを黙ってみていろとは滑稽だな。お前がここに居なければすぐにでも止めに行くのだが」
 上げ掛けた腰を座っていた座布団に戻した大妖怪、その考えに賛同できずに声を荒げる里の賢者、紫の示す所が解らずにしきりに首を捻る半人半霊、その三人を取り巻く里の者たちはこの空気に為す術も無く狼狽えている。
 その空気を治めるように、紫が一言。
「……里で喧嘩をした者たちが居た、その里に妖怪が襲ってきた、普段なら難無く追い払える、しかし今は仲を違え、そして両家を妖怪が襲う、――さて、共通の敵ができた二人は一体どうするのでしょう?」
「??」
 未だなお理解に追いつかない妖夢はクエスチョンマークを大量生産し、
「……荒療治過ぎやしないですかそれ。まあ、四の五の言ってられない状況ですので、今回は」
 ようやく理解に追いついた慧音は呆れ顔で溜め息を漏らす。荒げた語尾は、いつもの丁寧語に戻っていた。
「流石上白沢、話が早くて助かるわ。では、まだわからない妖夢には罰として答えを教えて差し上げましょう。まさしく『高山流水、呉越同舟』、一人で追い払えぬその妖怪を、二人は仲直りして協力して追い払うのでした――めでたしめでたし、と」


 ††


 藍は里を西へと駆ける。
 もう一人――名は、四方路、だったような気がするが、この際名前は関係無い――の家の位置も、だいたいは把握している。
 だからといって、単に家を襲うわけではない。悪質な悪戯を仕掛けるだけである。
 そして、狐が悪戯するのに最適な場所といったら、
(あそこしか無いだろう?)
 しかし、その悪戯は見られなければいけない。気づかれない悪戯はただの愉快な一人遊び、遺体の無い殺人が殺人ではないのと一緒だ。
 だからこそ、先に家の前を通り過ぎる必要がある。
 通り過ぎて、後を追ってきた東の村人の喧騒を気付かせなければいけない。
 そして、とある場所へと二人を導かなければいけない。
 出任せに立てた計画でありながら、問われるのは計画性と精密性。
「人間にこの九尾が捕まえられるものか!」
 わざと里の人間たちの前まで戻って、飛んでくる弾やら護符やら苦無やらを避ける。これ見よがしに煽って、追いかけられる役を演じなくてはいけない。それはさながら、
(鬼ごっこみたいだな……)
 そういえば、紫様にも昔こうやって追いかけられたな、あの時は生きた心地がしなかったなーなどと思い返す。あの時の彼女はまさしく鬼だった。それはもう、鬼も裸足で逃げ出しそうなほどに。
 そしてついに、
(――見えた)
 西の主の家が、視界に映った。
 その家は、畑の管理を任されている者としては幾分質素なもので、逆にその質素さが彼らの誠実さを如実に表していた。
 立ち止まって後ろを見遣ると、きちんと村の東の者達が追い掛けて来てくれている。あとは、
(西の主よ、後で修理代は出すから、勘弁してくれ――よッ!)
 藍は一気にその瓦屋根に大股で駆け上り、最後の一歩で跳躍、空へと高く舞い上がり、そして落下に反動をつけて、

 ガシャン!

 と、吠えるように吼えるように、家内まで響くように四足で瓦を打ち鳴らした。
 ある程度瓦は割ってしまったけれど、そこはお狐様のご愛嬌ということで、一つご勘弁願いたい。
「な、何事だっ!」
 慌てて家の外に押っ取り刀で西の主が現れる。家の外には丁度、ここまで追ってきた東の主とその他の者達がいる。これであとは、人間たちの会話に流れを任せるしかない。

「実は九尾の狐が出て……」「東の会場準備が荒らされちまった!」「な、祭り会場が……ふん! 俺には関係無い話だ」「お前さん、まだそんな事を……」「それで追ってるんだが……狐の野郎、酉の方角に逃げやがって」「酉、ってぇとどっちだ?」「西だ」「こっち方面か」「ついでに北に逃げる素振りも見せていた」「村の何かを狙っているんじゃないか?」「でも、まだ何も取られてねえし、誰もやられてねえ」「どういうことだ……」

 ふと、西の主は、北の空へと目を向けた。
 そして、そこに、九尾の狐を、見た。
 九尾の狐は、西の主を見ていた。
 一瞬だけ視線が交じり、九尾はとある方向へと目を背けて、またこちらを見た。
 西の主は、それが何を示しているのかを考えて、
(あっちには確か畑があったは……畑? まさか――!)
 気付いた時には、すでに九尾は風の中。

「狐の奴、北の畑を荒らす気だ――!」
 西の主は声を荒げる。その声に呼応したのは、東の広場から追いかけていた東の主。
「なっ……北の畑は今丁度祭の屋台に出すトウモロコシが生ってる筈じゃ……」
 北の畑は二人の管轄。今は丁度夏野菜の収穫時。そしてその野菜は、明々後日の祭で振る舞われるもの。だから、今荒らされては、困る。
「な、仲坊……お前どうしてここに」「祭の櫓の梁がアイツにやられちまって、今追っかけてるところだ」「それで……アイツは」「たぶんその北の畑に……」
 まるで喧嘩をした事などなかったかのように二人は北へと走りながら情報を交換し合う。仲は違えど、二人とも共に村の発展に貢献してきた猛者である。妖怪が村に現れたときの対処も慣れている。
「仲坊、お前足引っ張るんじゃねえぞ!」「よも坊の方こそ!」「狐は北の畑でいいのか?」「たぶんな」「狐はすばしっこいから挟み撃ちが一番ええ」「よし」「とっ捕まえて、蕎麦にしてやる」「蕎麦か」「饂飩の方がええか?」「美味けりゃどっちでも」「庄屋が狐に化かされるのは狐拳だけ、ってな!」「あたぼうよ」
 どうしようもなく仲が良い二人は、本当に、どうしようもなく不器用で、頑固で、
 しかし、その会話にはもう、喧嘩の溝など、なかった。
 二人は他の里人と共に、北の畑へと狐を追う。全ては村の為で、祭の為で、そして二人の為。
 辿り着いた先に、威風堂々と立っていたのは、一匹の狐。

 二人は仲直りしたらしい。
 ならばあとは、狐は狐役に徹するだけ。
「仲を違えた人間共に、この九尾を倒せる筈などあろうか!」
 狐が悪戯するには、畑が一番似合ってる。


 ††


 集会所に駆け込んできた里の者の情報によると、里に突如現れた九尾の妖怪は、仲違えしていた二人がど突きあいながら追い払ったとのこと。
 村を襲った妖怪は追い払われ、これで村は安静安泰、二人の仲は元通り。めでたしめでたしと相成る訳で。
「そうか……なら良かった。これで祭も無事に『皆』でできる……うん、美味しい」
 その報告を受けた慧音は安堵に胸を撫で下ろして、置いていた茶を啜った。
「なるほど、自らが敵となって仲違いした二人の共通の敵となって二人を仲直りさせる作戦……流石藍さん、いきなり走り始めた時はついに錯乱したのかと……うん、美味しい」
 ようやく事の流れを理解した妖夢は何故か呑気に茶を啜っており、
「錯乱……錯藍、誰か、妖夢から座布団二枚持っていって頂戴な……うん、美味しい」
 その暴れていた妖怪の主である紫も、何事も無かったかのように茶を啜っていた。
 要するに、そこに居た者は全員、のほほんと茶を啜っていたわけである。
 それも仕方ない、ある意味ここは蚊帳の外で、事件は現場で起こっていたのだから。

「全く……たまには式(プログラム)も、狂うときもあるわよね」


 ††


 八雲藍は忙しい。
「藍、夕飯はまだかしら?」
「紫様は一部始終を知ってるのでしょう? でしたら、今日ぐらいは少し待っていただけませんか?」
 村の諍いを遠回しに解決したからといって、藍の生活が特段変わるわけでもなく、主がちょっとだけ優しくなるわけでもない。そして、里では今、九尾の里荒らしの話と和解の話と祭の準備で持ちきりだろうから、暫くは里へと顔を出せなくなってしまった。
(全く、悪役の立ち回りじゃないか……)
 ただ、村の諍いは解決し、無事明々後日に祭は開催と相成った。代償として壊した櫓の梁も、今は二人で仲良く組み直しているのだろう。組む、というと、前々夜祭と称して肩を組みながら酒も酌み交わしていそうだった。
(暫くは買出しは橙に頼むとしようか)
 もし今迂闊に里に顔を出したら、どれほどの騒ぎが起こってしまうだろうか。考えると面白いかもしれないが、流石にお祓いされたり拝まれたりは勘弁だ。稲荷の神社じゃあるまいし。
 そして、村の騒動で時間を食ってしまった分、いつもより夕飯の時間が遅くなってしまっていて、むしろ主に催促されている始末である。
 難儀である。
 こういうときほど、橙の手も借りたくなるのだが、しかし橙は今どこかで遊んでいる。橙は藍の式だから、式として召喚はできるのだが、せっかく楽しく遊んでいるところを召喚してしまっては橙に申し訳ない。それに、「ただいま帰りました!」と元気に汚れて帰ってくる可愛い式を出迎えるのも密かな楽しみであり、そして保護者としての醍醐味でもある。
 そういう訳で、藍は現在、一人で夕飯の支度と奮闘中なのである。
 親馬鹿である。
「橙を呼び出して手伝わせればいいじゃない」
「今丁度その案が頭に浮かんでましてしかしながら私の頭脳内で棄却されたところです、って紫様、ずっといたんなら手伝ってくれてもいいじゃないですか」
「厭よ、面倒臭い」
「…………」
 改めて、何故私はこんなずぼらで面倒臭がり屋な惰眠妖怪に付き従っているのだろうかと藍は自らに疑問を呈してみるのだが、結局考える暇があったら夕飯の準備をしようという思考に収斂する。ついでに、これでも境界を操る大妖怪なんだからと誰に向けてでもなく補足する。
 そう、あの日、
 この大妖怪に従うことを決めて、
 八雲という姓と、藍という名を授かり、
 式として、こうして今を生きている。
(感謝、すべきことなのかもしれない)
 式として生きていなかったら、今頃自分はどこかで違う生を歩んでいたのだ。
 しかしそこはジレンマで、自分は今この瞬間を生きている。今を生きている以上。別の今を生きることはできない。だからこそ、この今を、一生懸命生きるだけ。
 感謝の言葉など、口に出しては言わない。付き従ってから千数年、今さら言うほどの事でもない。だから。
「……動かないと、茄子みたいになりますよ」
 代わりに口にするのは、精一杯の皮肉の言葉。
「あら、熟した茄子は甘くなるのよ? ……ほら、人参ぐらいは切ってあげるわ、貸しなさいな」
 大妖怪で大賢者の主には、やはり敵わないらしい。
 里の北の畑の夏野菜を切りながら、藍はそんなことを思ったのだった。


 ††


 忙しき中にも閑は有り、今宵は狐も休み也。
「橙、私は今日は静かに過ごすよ。だから縁日は紫様と行っておいで」
「そんな……藍さま、一緒に屋台を見て回りましょうよ」
「そうよらんさま、一緒に行きましょーよー」
「…………」
 今日は例の『八雲の夏例祭』。八雲神社は海原の神とされるスサノオを祀る神社である。スサノオは信仰不足でこの海無き地に越して来たのだが、現れて暫く経った後に再び信仰を得て外の世界に舞い戻っていった異例の神である。今でこそ神社も社も無いが、こうして祭だけは里に残っている。
 単に、幻想郷の者が人妖関係無く宴好きなだけかもしれないが。
「お言葉ですが、元はといえば紫様のせいでしょうが。いろいろ仕事を溜め込んだ挙句、私に丸投げで」
「でも、一昨々日の藍はカッコ良かったわよー。『仲を違えた人間共に、この九尾を倒せる筈などあろうか!』ってね」
「……ちょっと誇張しすぎじゃないですか? まあそれっぽい啖呵は切りましたけど」
「まんまだけどね」
「藍さま、疲れておられるのでしたら、肩揉みしましょうか?」
「ああ、ありがとう橙、お前は優しいね……、……」
「最後の三点リーダー二つに何か隠し切れてない想いが滲み出ている気がするわ、藍」
「ああ、それは失敬しました。紫様ほどの大賢者ならば、下に仕える者の気持ちも汲み取って頂けると思っていたのですが」
「ああもう藍ったら恐いわ、狐目になってるわよ「元から狐です」りながらいつからこんな反抗期になったのかしら? ……反抗期? 発情期?」
「ゆ・か・り・さ・ま!」
 八雲の名の付く者として紫は毎年顔を出していて、藍は毎年そのお付きをしている、とはいっても途中からは橙と屋台を回ることになるのだが。しかし、
「……今年は流石に勘弁願います。里の人間たちも、暫く狐は見たくないでしょうし」
「仕方ないわね……ゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます」
 こういうときに、紫様は意外に気を遣ってくれるから助かる。いつもこのぐらい優しければいいのに、とは口では言えない。言ったなら、あの天狗に撮られた時みたいな折檻を食らってしまう。
「藍さま、お土産に油揚げをたくさん買ってきますね」
「ああ、頼む」
 紫様に比べて橙はいつも優しい。流石自慢の式。まあ、甘々なのは重々承知しているが。橙の頭を一撫でし、油揚げの分のお金とお小遣いを渡す。
「あっ……紫様、少しだけお待ち下さい。着替えて参ります!」
 橙は妙なドップラーを効かせながら、縁側を走って向こう側の部屋へと消えていった。残された紫様は「全く、橙は元気ね……」と何処か遠い目で呟いていた。確かに、私も橙のバイタリティーには少し羨望を感じてしまう。一昨々日のような無茶も、そうそう出来るものではないなと独り言ち、改めて紫様に感謝しようと口を開き、
「準備できましたッ!」
 タイミング良く橙が飛び込んできた。
 その小さな身体は、橙色が映える美しい浴衣に包まれていた。
 花柄があしらわれた橙色を基調とした布地、帯は朱色で、橙色の中でもアクセントとして彩られている。袖は動き易いように肘の辺りで括られていて、裾も短くスカート調になっている。そして、裾に黒く縫われ染められた黒猫がピンポイントでワンポイント。いつもの帽子は脱ぎ捨てられていて、お祭の空気に晒された猫の耳がピコピコと、待ち切れないと言わんばかりに動いている。
「……うん、似合ってるぞ、橙」
「えへへ」
「じゃあ、準備はいいかしら?」「ハイ。藍さま、行ってまいります!」「いってらっしゃい」
 いつも通りのフリルが多い紫基調の服を着た紫様、
 普段よりも活発な橙色の浴衣を纏った橙、
 紫様から見たら、橙は式の式、
 橙から見たら、紫様は主の主、
 ああ、まるで家族みたいだなと、そう思った。
 そう私が思っているのが伝わったのか、二人は同時に嬉しそうな顔をして、そして、スッと、スキマの向こうへと消えていった。
 それを見届けた後、ふぅ、と一息吐いて縁側で涼む。夏でも冷たい井戸水を汲んだ桶に足を投げ出して仰向けに寝転がると、幻想の星空が幻想の光を振りまいて綺羅綺羅と煌いていた。
(お、夏の大三角形……頂点星がアルタイルで、底辺右がデネブ、底辺左がベガか。えーっと、アルタイルまでの距離は16.77光年だから、メートル換算だと……大体15.9京メートルか。京、京ね、10の16乗、15乗でペタだから1ペタが10京、と。次はデネブか、デネブまでの距離は1800光年……遠いな……遠い……あー)
 数字ばかりの思考を打ち止めて、縁側下にだらんと下げていた素足を空に向かって蹴り上げる。足を入れていた桶の水が、チャパンと音を立てて撥ねた。
「うん、難しいことを考えるのは今日は止めよう」
 光年だの何だのとスケールの大きいことを考えていると、なんだか自分という存在の小ささに気付かされる。
 地球という星の中で、九尾のなんと小さいことか。
 吹きそよぐ風が頬を撫ぜて、寝転ぶ藍を夢現の転寝へと誘う。


 何処からともなく、風に乗って風鈴の音が流れ込む。


 不意に、コトリ、と何かが落ちる音で藍は目を覚ました。瞼を開いた目線の先に何かが落ちて、否、置かれていた。
 縁側で寝ていたので少し体が痛いが、はて何かと訝しんで立ち上がる。しかし、見渡しても周りには誰も居ない。とすると、こんなことをするのは一人ぐらいしか思いつかない。
 巾着袋の中身を見てみると、案の定袋に包まれた油揚げがたくさん――それはもう両指では足りないぐらい――入っていて、そして橙に渡したはずのお金がそっくりそのまま入っていた。まさか紫様、と耳を立て、ふとヒラヒラと落ちる紙切れに気付き、俊敏に空中で掴み取る。その紙には、大きく「後ろ」の文字。
 何かと思い後ろを向くと、そこに置かれていたのは、
「……狐のお面?」
 手にとってまじまじと眺める。一般的なキタキツネのような可愛いものではなく、能や歌舞伎に使うような、白地に赤で目鼻が描かれた面妖な狐のお面。蠱惑的でもなく、かといって冷酷的でもなく、見るものを惹きつけるような、摩訶不思議な異彩を放っていた。
 そのお面から、また紙切れがヒラヒラと落ちる。紙には先と同じく「後ろ」と大きな文字。
 くるりと後ろを見ると、そこにはスキマが開いていた。まるで、誰かを祭りへと誘うかのように。
「……フフ」
 全く、自分の主はなんて粋な方なのか、普段からこのぐらいなら嬉しいのに、とは口に出しては言えない言わない。その代わり、
「ちょっと待ってて下さい。せっかくですから、着替えていきますよ」
 そう言うと、スキマは跡形も無く消え去った。「carp!」と書かれた紙切れを残して。
「カープ……鯉?」
 はて、金魚掬いならぬ鯉掬いもあるのだろうかと逡巡して、まあどうでもいいかと思いながら、あまり待たせたはいけないと思い、自分の畳の部屋の襖を閉める。ここはマヨイガ、覗く者など居やしない。しかし『壁に耳有り障子に目有り』で、ついでに『スキマ』にも目はたくさんある。用心するに越したことは無い。
 いつも被っている帽子を脱いで机の上に置く。今日はもう被る必要はない、代わりに被るモノは、主に渡されたから。
 そしていつもの服をするりと脱ぐ。障子越しに、星光が艶かしく起伏豊かな軆の稜線を描いている。美しい肌、怖ろしい脚力を持ちながらも無駄な脂肪も筋肉も付いていない脚線、見る者を禁断の楽園へと誘う優しく揺れるふくよかな胸、女性特有の芸術的な腰の括れ、黄金色に映えるは、大妖怪の印である見事な九本の尾、頭の上には普段帽子に隠れている狐耳がちょこんと可愛らしく鎮座している。
 下着は、下しか着けていない。確かにブラを着けていないと肩は凝るが、自然体が一番良いのだ。
 橙が丁寧に畳んでおいてくれた浴衣に手を伸ばす。紺色を基調とした質素な浴衣、深緑の竹模様が入っていて、帯は淡い紫色、紺との色合いも合っている。
「ん……いい浴衣だ」
 せっかく主に誘われたのだから、せっかくならば式が用意してくれた浴衣を着ないことはない。橙に笑顔で藍さまに贈り物ですと渡されてからというもの、目の前で着付けた以外には着たことは無い。着る機会も着ている時間も無かったからな、とは今さらの言い訳ではあるが、
「橙、喜ぶだろうな……」
 そう式の喜ぶ顔を想像すると、やはり着て行こうという気になってしまうのだった。
 胸に晒を巻いて、浴衣を羽織る。合わせは左前。仮帯を巻いて裾と衿を整えて、帯の結びは貝の口。髪はマヨイガの髪飾りを使って纏め上げる。着物は項を美しく。
 あとは、仮帯を抜けば、着付けは完了。
 手元に置いてある狐の仮面を被ってみる。自分では見えないからわからないけど、様になっているかもしれない。
 傍をよく見ると、きちんと下駄も準備されていた。鼻緒は橙、オレンジ色。
「あとで橙を抱きしめてあげよう。そうしよう」
 縁側から庭に降りてその下駄を履く。大きさは丁度良い。一歩歩くごとに、カランコロンと下駄が鳴る。
 その音が合図になったのか、目の前に、スッ、と、迎えのスキマが現れた。
 藍はそのスキマへと迷わずに進む。お狐様の仮面を被って、さてどうやって三人で縁日を練り歩こうか。そんな事を、考えながら。


 一輪の花火が、バン、と空気を響かせて、美しく宙に咲く。
 紫、藍色、橙色。色鮮やかに。
 その一瞬は、永遠のように、マヨイガの空に瞬いていた。












〜あとがき〜
 フランスでも狐物語(Le Roman de Renart)なんてものがあるぐらいで、お狐様が騙し騙されたり、はたまたただの日常だったり、世界各地に狐の話はあります、日本でも玉藻前があちこち帝を誑かす話もあったりと、まあ我らが八雲の藍さまはそんな事しませんが、名のある九尾が今では大妖怪の手となり足となり首となり、そしてくるくる回ったり、それでも藍だって元は九尾の大妖怪、はっちゃけたくなる日もあるし休みたくなる日だってあるのです、そんな非日常の中の日常、晴れなのに雨みたいな、まさしく狐日和な日常でした。

 にしても橙の声がM−1ぐらんぷりの和さんの声でしか再生されなくなってきた。なんという甘々ボイス。
 あと、『晶翠巒』は某“わはー”なサークルさんのネタです。どうでもいい場面で小ネタを挿むのは楽しいです。二次ネタもたまには、ね。





モドル

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