桜唇 〜requiescat in pace〜



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 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
    ――坂口安吾『桜の森の満開の下』

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 さつさつと吹き抜ける風が冷えた頬を撫でていく。
 くすぐったい風に、堪らずくしゅんと一つ嚏をする。
 落花狼藉、桜の花弁がはらはらとゆらゆらと舞い踊る。
 さやさやと流れていく温い風が、緑の髪を靡かせていく。
 暗い空。まだ日は高いのに、花弁が空を埋め尽くしている。
 来来世世、花も人も妖も、生まれて、そして儚く散っていく。

「野山も里も……か。それで、そこな蟲の妖怪、こんな辺鄙なところに何の用だ?」
 見渡す限りの桜の木は、春という春の彼方まで届けと云わんばかりに、あらん限りの根と幹と枝と葉と芽と蕾と花を精一杯に目一杯にどこまでも伸ばしている。桜という具現化した春を、幻想の涯まで広げるようにどこまでも。
「いや、気がついたら、ここにいただけで……」
 霞か雲かと見紛うほどの桜吹雪に圧倒される。この世の全ての桜が咲いていると思い込んでしまうほどの、吹雪。しかし、その中にも――桜の森の満開の中にも、一本だけ、一つの蕾もつけていない大樹があった。一本だけ、春が訪れていない木があった。
 朝日に匂う桜吹雪の中、それは堂々と、しかし張る葉も花も無く、寂々と佇んでいた。
「桜、と、言えるのだろうか……この木は。人の血を吸い、妖気を纏った、この花咲かぬ樹は」
 桜花も咲かぬ、桜の蕾も生らぬ、桜の葉も生えぬ、何の木かも、わからない木。何故ここにいるのかわからないリグルの目の前に、飄々と、意にも介さず存在し続ける木。
 ざぁ、と、花無き桜は揺れて、
 かぁ、と、顔面が熱くなって、
 リグルは、音も無く、倒れた。







 そんな、夢を見た。
 夢だと、思っていた。
「西行妖の妖気に中てられて倒れるなんて、まだまだヒヨッコね……ねえ、蟲の妖怪さん?」
 気がつくと、リグルは誰かの膝を枕にして眠っていた。視界はまだぼやけていて、それでも聴覚が、ほんわかとした春風のような朗らかな声を捉えている。
「………………?」
 しかし、夢と現が未だ意識の中に混在していて、リグルは呆けた声すら出せなかった。まだ夢の中にいるような摩訶不思議な浮遊感、色のついた空気が意識の回路を巡っているような感覚。それはまるで、夢の中で夢を見ているよな――。
「ほらっ、早く起きなさいな」
「うぴゃっ!?」
 そんなことをうつらうつらと考えていたら、ぺちんと軽く頬を叩かれた。まだ冴えない頭に、痛覚からの軽い痛みの信号が駆け巡る。
「い、いひゃい……ぅえ、あ、れ? ここは……?」
 ようやく我に返って瞼を開いたリグルの視線の先には、見慣れない桃色の髪の誰かがいた。見慣れない、桃色。それでも、それを見たのがたとえ一度きりでも、見慣れていなくても、それが畏怖の対象として、リグルの記憶に残っていた。
 この姿は、あの永い夜の――
「う! え? お!? な、何でここに亡霊が……」
 驚いて飛び起きようとしたけれど、金縛りにあったように体が硬直していて、リグルは身動きが取れず、ただ体を揺らしただけになってしまった。
「亡霊、ね……失礼しちゃうわ。私にはきちんと、西行寺幽々子という名前があります」
「わ、私にだって、蟲の妖怪じゃなくて、リグル・ナイトバグっていう名前があるよ!」
 反論にもなっていない反論をするリグル。その初々しさに、幽々子は艶やかに笑みを湛える。
「じゃあ、早速だけどリグル、少し目を瞑ってくれないかしら?」
「えっ? いいけど……」
 そのふわりと柔らかい笑みに、リグルは素直に首を縦に振って恐る恐る目を瞑った。そして、目を瞑ってから、ふと怖ろしくなった。
 記憶が正しければ、その冥界の亡霊は『死を操る程度の能力』を持っている筈だ。――死、それは人間でさえも妖怪でさえも、命有る者全てが怖れる事象。終局、終末、終焉。それを操る者の前で安々と目を瞑るだなんて、あれこれもしかして最近流行の死亡フラグというやつじゃないのかななどと思い、しかしそれでもリグルは従順に目を瞑り続ける。承諾してしまったからには目を瞑るしかない。体が恐怖にぷるぷると可愛く震える。
 そして、
 ちゅ、と。
 唇に、柔らかい感触が触れた。
「――――ッ!?」
 キスされた。
 キス、接吻、口接、ベーゼ。
 突然すぎるそのキスに、リグルは反抗するでもなく反駁するでもなく抵抗するでもなく憤怒するでもなく欣喜するでもなく、ただ固まってしまった。体が岩にでもなってしまったように、とある友人の氷精に氷付けにされてしまったように。
 別にキス自体は恥ずかしくもなかった。妖怪として長い時を過ごしていれば、キスの一回や二回は経験する。――リグルは、実は初めてだったのだけれど、それでも唇というプライベートな部分同士を、女性同士で触れ合わせるという行為に、リグルは言い知れぬ緊張感と背徳感を味わってしまっていた。
 しかし、刹那の感触は、あっという間で。
 そして、いつの間にか、唇は離れていた。
 それとともに、硬直していた全身が弛緩していく。すっかり腰が抜けてしまったのか、文字通り腰抜けにされてしまったのか、せっかく動くようになった体は動かず、乾いた笑いしか出てこない。
「西行妖の狂気、とでも言うのかしら? 貴女の中に巣食っていたそれを、私の能力で『殺した』わ。これでもう、大丈夫のはず」
 なるほど、それで体が思うように動かなかったのかとリグルは納得して、しかし一つだけ納得できなかった。
「だ、だったら、別に、キ…………………………ス、じゃなくてもよかったじゃないか!」
 まだ柔らかな感触と肌の温もりが幽かに残っている唇を押さえながら、リグルは狼狽する。どうしてこう力の有る者達は、挙って腹の内が読めないのだろう。
「だってほら、リグル、貴女の唇、桜みたいで可愛かったから」
 キスという単語を口にすることすら憚るリグルの眼前曖昧三センチ、嘗め回すように舐るように、幽々子は艶かしくリグルを見遣る。
 熱い吐息が、春に似つかわしくないなと、そうリグルは思った。
「それに、桜の森の満開の下は、誰もが足を竦ませてしまうぐらいだもの。後ろを向いたら鬼がいたりして、ね♪」
「洒落にならないね、それ……」
 ついでに理由にもなってないねとげんなりする。
 確かに桜の木というものには伝説が付き物だ。――或いは、憑き物だ。

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』

 都市伝説。街談巷説。道聴塗説。
 噂は噂、語り、騙られ、話半分。
 ならば、もう半分は真実なのだ。
「風が吹いている音は聞こえるのに、風は吹いていない。吹いていないのに、肌寒い。……怖気、という感覚かしら。亡霊の身としては、些か理解しがたいけれど」
 亡霊の体は、人間ほど温かくないという。しかし、先ほどの口付けでは、彼女の唇は温かかった。その事を思い出して、リグルは顔がカーと熱くなったのを感じた。
 しかし、ふと思う。
 桜の伝承が恐ろしいのは、桜の花が綺麗だからだ。満開の桜の花が美しいのに、その下に死体が眠っているかもしれない、その美しさは人間の血を吸っているからだというギャップこそが、人々の恐怖心を煽るのだ。
 ならば、あの花一つもなかったあの木は。
「――あの木は、いつ咲くんですか?」
 気づけば、リグルは彼女に訊いていた。
 花は咲くものだ。ならば、あの木は。
 一体何の為に、存在しているのか。
「西行妖のことかしら? ……あれはね、咲かないの」
 咲かない。
 花を咲かせる木であるはずなのに。
 それは、存在の自己否定だ。
「西行妖は、不完全で不可解なの。なのに、不可解な一つのピースなのに、一欠片だけで完成してしまっている。――いえ、正確には、もう一ピース、あるはずなの。不完全で不可解を、完全で理解の範疇に昇華させている犯人が、あの下に、埋まっているはずなのよ……」
「ちょっと、虫頭の私には理解しかねるんだけど……」
 一番不可解なのは、今の言葉だったような気がするのだけどとリグルは漏らす。それでも、最後の言葉だけは理解できた。つまりはあの木の下に、伝説でも何でもなく、本当に何かが埋まっているのだ。
「いいのよリグル。理解できなくても。その代わり、やってもらいたいことがあるの」
 ずい、と幽々子が詰め寄る。何かのきっかけで、また唇が触れてしまいそうなほどの距離。ふわりと靡いた髪から、仄かな桜の香りが漂って、リグルの鼻腔をくすぐった。

「春を、集めてきて頂戴な」







 そんな、夢を見た。
 夢だと、思っていた。
「でも、夢だったら、疲れたりしないよなー……」
 白玉楼の庭に面した、長く長く長く長く長く長く長く長く長く長く長く長くとにかく滅多矢鱈にひたすらにとことん長い廊下を、リグルはひたひたと歩いていた。
 風の噂では「あの世の庭はすっごくでかい」と聞いていたので、それに面しているこの長い廊下も長いのだろう。幽々子は「いつも聞かれたときには、二百由旬ぐらいって答えてるわ」と言っていたが、そもそもリグルには、二百由旬がどれほどの長さなのかわからないのだった。それでも頭の片隅で、とりあえず長いのだろうと解釈する。これまた風の噂で「でもその二百由旬は誇張表現」だと聞いたので、結局は、ただ長いのだろう。長さの尺度は人それぞれだ。一光年が長いと思うものもいれば、一寸すら長いと思うものもいる。
 考え方は、人それぞれ。
 蓼食う虫も、好き好きだ。
 徒然とそんなことを思いながら、リグルはまだ廊下を歩いていた。というよりは、廊下を右往左往していた。
 右往左往、右顧左眄。
 見渡したところで、誰もいないのだ。
 人っ子一人、冥界なのに、亡霊さえも。
 しん、と静まり返った世界。音や空気でさえも死んだ世界に、リグルはただ一人存在していた。夢で出逢った剣士でさえも、今はいない。
 ――そも、何故私はここにいるのだろう。
 よく考えたら、私は全くの無関係じゃないか。片や冥界の姫、片や只の蟲の妖怪。関連性がない。普通に生きていては、出逢うことすらないだろう。それなのに、何故出逢ってしまったのか。そして、何故私はこうして春集めに従事しているのだろう。――それは、彼女に春を集めてきてと言われたからだ。その言葉には、リグルに有無を言わせぬ気魄があった。
 春を集めれば、西行妖は咲くだろう。
 根拠は無いと、彼女は言った。
 そして、それでもやってみなければわからないでしょう? とも。
 春という春をその根から吸い尽くす、咲かない桜。貪婪(どんらん)に春を求める、空ろな桜の樹。そんなに春を求めて、一体何になるというのか。
 ――そもそも、これは現実なのだろうか? リグルは首を捻った。もしかするとこれは夢で、そして時系列が入れ替わっている気がしてならないのだ。彼女と、幽々子と出遭ったのはあの永い夜の時で、それは秋だ。そして今は春、終わらない冬の話。もしもこれが本当に夢だったのなら、どうとでも理由が付けられるのだろうけど。
 疑問は尽きない。尽きないが、しかし考えたところで解決しそうな展望はない。むしろ考えすぎて、お腹がエンプティランプを点滅させている。リグルは妖怪であるから、別に食べなくてもしばらくは生きていけるのが、それでもやはり、空腹は辛い。辛いものは辛い、それは当たり前のことなわけで。趣味として人間同様に食事を摂ってしまうと、腹減りがこんなにも辛くなるのだ。
 知恵熱、空腹、筋肉疲労。心身ともに困憊してしまって、リグルは廊下に座り込んだ。廊下でありそして縁側でもあるから、足を投げ出すにも丁度良かった。座った廊下の木目から伝わる冷たさが、妙にお尻に冷やっこい。状況が状況だが、リグルはぶらぶらと足をぶらつかせて、そしてはたと気づいた。
 そういえば、靴は何処だろう。
 気づいたら廊下を歩いていたから、どこかに置いてあるのだろうけど、よく見ると靴下も穿いていなかった。つまりは素足で、ああ、だから足の裏が冷たかったのかと今さら思った。そういえばマントもない、あれシャツは……さすがにそれはあったけれど、心配になってさすがにズボンは穿いてあるよねと、太腿辺りに手を伸ばし、
「あれ……?」
 穿いてなかった。
 つまり、下半身に何も穿いていなかった。
「――――――――――!?」
 パンツすらも穿いていなかった。
 裸ワイシャツの状態である。
 えっちである。
 小説という体系であるから、今このリグルの露な姿をお見せすることはできないが、それにしてもこれは一体全体どういうことなのか。理解不能を超えていて、最早リグルは恥ずかしいという恥辱感すらも湧かなかった。とにかく説明が欲しい。何でこんなことになっているのか。今この状況のマニヤルが欲しい。わからないことが多すぎて、なんだか辛くなってきた。
 だんだんと考えること自体が億劫になってきて、リグルはそのままパタンと仰向けに倒れこんだ。倒れこんで、ああ、お尻と太腿冷たいなーと、どこか冷静な頭でそう思った。何が悲しくて下半身丸出しで寝転がらなければならないのか。悔しさと共に目頭が熱くなってきた。主に悲しみで。
 そんなわけでリグルは今、開けっ広げ状態である。縁側に下半身丸出しの蟲少女がいると知ったら、ここの主は何と驚くだろうか。そもそも本人ですら驚いているのに、他人から見たら驚愕ものだろう。
 閻魔様にでも知られたら、即『黒』だろう。
 こんなところに閻魔様が来るとは、到底思えないけど。
 ……などと思考を巡らせていると、いい具合に心地良い睡魔が体を襲ってきた。空腹と疲労が、睡魔を呼び寄せたのだろう。妖怪の身だというのに、寒さに弱い蟲だからか、何故か睡魔だけには勝てなかった。
 瞼を閉じる。閉じて、ふと眠るのが怖くなって、瞼を開く。それでも眠気には勝てなくて、自然と瞼が落ちていく。
 深く深い黒の中に、落ちていく。
 華胥の国で、華胥の国に遊びに行くなんて、不思議な感覚だなと、そんなことを断片的な思考の片隅で思って、そして、意識は、そこで、途絶えた。







 そんな、夢を見た。
 夢だと、思っていた。
 目を開いた先、何を考えるよりも先に、その言葉を呟いていた。
「咲い、てる…………」

 西行妖が、咲いていた。

 決して咲くはずの無い木が、咲いていた。
 ――しかしそれは、満開ではなかった。
 参分咲、だろうか。少なくとも、半分も咲いていない。美しい開花のはずなのに、その開花はみすぼらしく、儚く、しかしそれでいて妖艶だった。
 目立つ色は、茶。幹と枝の茶色が、桜色で隠されるはずの体幹が曝け出されていて、それを隠すはずの桜色も、花開いた傍からすぐにひらひらと散っていた。
 咲いて散るのが花だと、その姿で語るように。
 散った花弁は積もり積もって、木の下に桜色の絨毯を広げていた。リグルがその絨毯に飛び込むと、優しく柔らかく受け止めてくれた。その花の絨毯に寝転がり、目を細めて枝の間から空を仰ぐ。
 青。
 春待つ冬独特の、何処までも澄んだ青。
 その青色の中を、桜色が吹き荒ぶ。春という春を吸い取ったのに、結局遂に花で満ちることも叶わず、ただ淡い花弁を青の中に舞い散らしていく。
 と、ふと、リグルの視界に、一匹の虫が現れた。目を凝らさなければすぐに見失ってしまいそうな小さな虫が、視界の端に留まる。
 その虫は、ひらひらと舞い散った一片の花弁を全身で抱えるように掴み、そして羽をはためかせて、どこかへと消えてしまった。
 ふらふらと、頼りなく。
 気づくと、一匹、一匹、また一匹と、虫はどんどん増えていく。桃色と青色の淡い世界に、黒色の存在が多くなっていた。
 増える黒は、最初の一匹と同じように、花弁を掴んではどこかへと消えていく。
 春が、散らばっていく。
 その虫たちを見て、リグルは理解した。
 ああそうか、虫たちは、奪われた春を、幻想郷に戻しているんだなと。 
 春が奪われたせいで永遠の冬のままの幻想の世界に、春を戻しているのだ。
 ――これで幻想郷にも、ようやく春が訪れるだろう。
 虫の現れは、冬と春の境界だ。虫が現れれば、それは春。その頃にはもう、小さな芽は出ているだろうから。
 そう考えると。
 リグルは思う。
 誰かが、冬と春の境界を破るために、私をここへ連れてきたのだろうか? 蟲の妖怪である私を使って、春を戻させようとしたのだろうか?
 そう考えることも、出来るのかもしれない。
 でも、もうそれは解決してしまったのだ。
 結局、西行妖は咲かなかったのだから。
 そして、体を起こしたリグルの、視界の先、
「――――――――」
 呆然と、彼女は立っていた。
 長短二刀を携えて、ただ唖然と、それを見上げていた。
 悲喜交々の表情が、顔に張り付いている。彼女は、何に悲しんでいるのだろうか。彼女は、何に喜んでいるのだろうか。主の悲願が、ついに達成されなかったからか。主が、これでもう無理をしなくなると思ったからだろうか。それとも、この妖しく醜く咲き誇る桜に心を打たれて、何も思っていないのか。
 リグルには知る由もなく。
 冬が終わり、春が訪れる。
 夢は終わり、現に覚める。

 嗚呼、桜よ、せめて安らかに眠れ。

 そんなことを思って、彼女を見遣り、桜を見遣り、そしてリグルは、そっと目を閉じた。






 そんな夢を見た。
 夢だった、ような気がする。
 しばらく冬眠と称して、一ヶ月ほど蟄居して眠り込んでいたからだろうか。どこか不思議な夢を見たような気がする。
 気がする、というのも、何故だか夢だった感覚があまりないのだ。
 むしろ、現でしっかりと時を刻んだような感覚と記憶が、脳裡にしっかりと焼き付いている。
 それでも、リグルは一ヶ月、眠りこけていた。それは事実だ。その間に知らず知らずの内に外に出ていたとなれば、あとは夢遊病を疑うしかない。無意識か、無意識なのか。
 そう云々と、一人隠れ処のベッドの上で唸るリグルの掌から、はらりと何かが舞い落ちた。
「…………?」
 はて、自分は無意識の内に何かを握っていたのだろうかと、落ちた物をまた拾い上げ、
「――ああ、もう春なのか」
 いつの間にか、そう呟いていた。

 はらりと舞い落ちたのは、一片の桜の花弁。

 リグルは、寝続けて少し寝汗が染み込んでしまったベッドを軋ませて、そして一ヶ月ぶりの大地に降り立った。
 手に握るのは、一片の桜の花弁。
 何故だかリグルは、あの咲かなかった妖の桜の下に行ってみたくなった。
 畏れ多くも美しく、凍てつくような空気を纏う、あの桜の下へ。
 あの桜の木に、春は来たのだろうか、それを確かめるために。
 外では春一番が吹いているのだろうか、萌える新芽をも吹き散らすほどの風が窓を強く叩いている。花が開けば、蟲も賑わい始めるだろう。もしかすると、もう賑わい始めているのかもしれない。
 この風ならば、桜吹雪が綺麗だろうなと、
 夢見心地で、リグルはそんなことを思ったのだった。



<了>
















〜あとがき〜

 ――さて、リグルは何回夢を見た?

 そういえば、桜は散り際が最も美しいんですよって、誰かが言ってました。この作品も、特集『桜』に合わせて、月刊ナイトバグに投稿させていただいたものです。






モドル

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